助けてと叫んだことが何回もあったような気がするし、その全部を声には出来ていなかった気もした。俺を押し倒すあの人は俺に母さんを重ねている。とても似ていると言って俺の前髪の一房を弄ぶのが癖だった。冷たい、大きな手が這うように額を辿って、顔の輪郭をなぞり、俺に笑いかける。愛に満ちている、と思った。あの人は全身で母さんを求めていて、それに俺は好都合だったんだろう。俺はその愛の矛先がどこだかなんて、執着もしなかったけれど、ただ恐ろしかった。愛というものがあの人の口からどろどろと零れ落ちて、それが蜘蛛のように身体を這って、湿った泥の跡を残して伝い落ちる。その跡がいつまでも残っているような気がする。
俺は、残酷なくらい母さんに似ていた。柔らかな髪質も、輪郭も、目の色も。全部俺の母さんのものだった。それを俺が貰った。綺麗だと自慢だった母さん。額に口づけて美味しいと言った母さん――。
俺は最初あの人のことが嫌いではなかったから、仕草や言葉を、まるで母さんに似せるようにしてやった。あの人はどうやって母さんを愛していたのかな。その手で、どうやって触って、なぞって、母さんを抱いていたのかな。それが無性に知りたかった。
でも、俺はそれを知れば知るほど気持ち悪くなった。あの人の手は冷たく、泥のように、蜘蛛のように、這う。俺は肌にその温度を感じるだけで吐き気がするようになった。それは臨界点を突破し、俺は頻繁に吐くようになった。あの人に会った後、俺は酷く引きつった喉を押さえながら金属パイプの走る路地の影で吐いた。吐きつくした。胃液まで吐いた。喉にまで蜘蛛が押し寄せた。助けて。助けて。俺の声は声になっていたんだろうか。それとも、それもまた蜘蛛みたいなものに過ぎなかったんだろうか。

「戦争はないよ」

カヅキに会った。夢だったけれど、その時は夢だと気づかなかったから、俺は相変わらずの平和ボケだなと思って苦笑が漏れた。俺が笑うとカヅキはぐっと眉を寄せた。カヅキはそういうやつだった。俺は時々カヅキの平和ボケを見ると、こんなんじゃ駄目だ、自分の身は自分で守らなくちゃって、そう考えられるから正直ありがたかった。

「サイ・・・・・・サイ! 起きろ! 点呼だ! 遅刻するぞ・・・・・・」

うっすらと瞼を押し開けるとカヅキがやたらと焦って俺を揺さぶっていた。俺は小さく「戦争はあるよ」と呟いた。
カヅキは聞こえなかったらしく、きょとんとして揺さぶる手を止めた。
「なにか言った? じゃなくて、それより、点呼! サイの方が寝ぼけるなんて珍しいなあ」
カヅキ。カヅキ。戦争はあるよ。人は人を傷つけるし皆お前みたいな人間じゃあないんだ。無防備に他人の良心を信じるなんて馬鹿だ。身を守る力を持たなくちゃ自分は守れないんだ。お前は馬鹿なんだよ。ばーか。

というのも夢で、俺は海の中で流れに翻弄されながら溺れていた。キョーヤを殺す為に手榴弾で自爆したときの傷が漸く癒え始め、意識が戻ったらしい。まだ塞がりきっていない裂傷から血がどくどくと溢れる音。体中に響いていて、海水に流れ出してはどす黒さも薄れて、血が減れば減るほど身体はそれを補充する。海水が痛める肺はその都度再生されて、死を繰り返す。岩を掴もうとしても荒れ狂った波の中では上手くできず、自分が何回死んだのかも分からない。緩い死と苦痛を繰り返す時間のなか、何度も意識を失って、漸く収まったと思った時、俺は海底に寝そべって水面を見上げていた。きらきらと陽光が輝く、白い筋で模様の描かれた水面。その下を何百何千という魚が泳いでいた。瓦礫や廃材が住処となって漁礁と化しているらしい、渦を描いて同じ種類の魚たちは群れ、大きな魚がやってきても逃げることはない。思い出したのは子どもの頃のことだった。いつだったか、テレビでシマウマとライオンが同じ草原で平然と昼寝をしているのを見たことがある。俺たちはすぐに自然界を弱肉強食だというけれど、シマウマとライオンにも理があって、食事ではないときは普通に共存しているんだって。でも俺には、それは単にシマウマが馬鹿なだけなんだ、としか思えなかった。ライオンを信じて、ライオンが腹をすかせている時だけ見計らって逃げるのなら、最初からライオンより強くなれよ。力を持てよ。そうすれば、ライオンを駆逐できる。同じように隣で昼寝をするのにも、階級が逆になれば馬鹿なのはライオンの方になるだろ。それをしないのは甘えているだけなんだ。そんなだから自分を守れない。どうして自分を守る力を持つことを躊躇ったりするんだ。
俺の目からじんわりと涙が滲んだ。海の中で、見えないけれど、周りより少しだけ薄い塩水を出して俺は泣いていた。大きな魚が悠々と泳いでいた。小さな魚がすれ違った。俺はそれに囁くつもりで泡を吐いた。あの魚は気まぐれに腹が減ったらお前らを食べるんだぜ。いいにおいがして、やわらかくて美味だと言って、母親にそっくりだといとおしげに囁きながら、お前らを食べるんだぜ。
前食べた時美味しかったからって、クローンみたいに同じ味がするお前らを食べるんだぜ。
「カヅキ・・・・・・」
カヅキ、なあ俺分かったことがあるんだ。俺は、お前が羨ましかったんだ。だって、俺にはあの人の気持ちが理解っていたから。あの人は母さんを忘れたくなかった。だから俺が欲しかった。あの人にとって俺は母さんのクローンみたいなものだったんだ。そして俺も、俺もとても綺麗な母さんのことを忘れたくなかった。だからたった一枚の母さんの写真をずっと、ずっと持っていたんだ。でもそれもこの前、ああ、ずっとずっと前なんだっけか、結局食べてしまったよなあ。
起き上がるとふわりと土が舞い踊って、傍を泳いでいた魚がひょいひょいと逃げていった。鮮やかな緑色の鱗を煌かせながら、直線的な動きをして、群れからはぐれて、また戻る。大きな魚はそれをどうでも良さそうに見て割れたブロックの穴の中に帰っていった。
俺は海から出て岸に上がり、吐いた。キリキリと痛む肺を押さえながら、海水の全てを吐きつくすまで、ひたすらに。吐くのはもう慣れていたから、苦しみにも懐かしさが生まれただけだった。ゼエゼエと荒い息をして、時折咳をした。口の中が塩辛くて、喉はカラカラに渇いた。生臭いえぐみが口内に充満しているのだ。
「これでも生きてるのか。すごい身体・・・・・・」
俺が食べてしまった母さんも、この吐瀉物の中にあるのかと思うと引きつったように嗚咽が漏れた。海風みたいにひゅうひゅう甲高い音が喉から発せられている。俺はきっと母さんの顔を思い出せなくなる。でも記憶力の良いカヅキは、覚えていられるんだろう。だからカヅキが生きていたら俺は母さんを忘れずにすむ。カヅキが何度でも母さんの絵を描いてくれる。それがありがたいのに、どうしようもなく妬ましい。

俺にとってのカヅキは馬鹿なシマウマだ。周りの、ちょっと力を持ったシマウマとは違って、あいつには害がない。
なにがあったって俺を傷つけない。人間がミルクを警戒しないように、俺はカヅキを警戒しない。だから俺はカヅキに触れても吐き気がしない。

いつだったかカヅキと将来の話をしたことがある。教室の窓際の席で、俺は椅子に後ろ向きに座って、カヅキと向かい合った。
「本土に戻ったら就職活動だろ。そういえば、サイは何になるつもりなんだ?」
「・・・・・・カヅキは?」
「俺? 俺は・・・・・・うーん、あんまりちゃんと考えてない」
カヅキは頭を掻いて、眉尻を下げて笑った。癖毛が頂点でゆらゆらと揺れていた。
「カヅキは自分で考えてないことを人に聞く癖があるよな」
俺が笑うとカヅキは言葉に詰まった。表情に全部出るからカヅキはとても分かりやすい。
「・・・・・・悪かったな」
カヅキは親を知らない。愛された記憶を持たない。気がついたら孤児院に居て、それだけだ。本当ならそれを可哀想と思うんだろうけれど、俺にはお幸せなやつに見えた。あんなドロドロとしたものの存在を理解しないままでいい。考えなくていいんだ。ただ、他人に聞いてそれだけで生きてゆけばいいんだ。
「それで、サイは?」
カヅキの取り繕ったような笑顔の下には、俺と違ってきっとなんにもない。
「愛人」
「へ?」
「・・・・・・冗談」

海は青々としていて、中から見上げたような透明さはどこにもない。げほ、とまた咳が出て砂が歯の上でじゃりじゃりと音を立てた。
「カヅキ、なあ、俺は王様になりたかったんだ。なりたかったんだよ・・・・・・」
吐き出した唾が吐瀉物の一番上に落ちる。
「奪われるだけのシマウマじゃ、なくて」
血はもう止まっていたけれど、それまでに溜まったそれらが海へと流れ出していた。
「でも、もうなんにもないんだろ」
この血に微生物が群がってきてそれが餌になって魚がまた増える。
「今更、どこの国の王様にって――」
助けてって声がちゃんと出ていたって出ていなくたって俺を助けてくれるやつなんかいなかった。だから俺は自分の身を自分で守らなくちゃいけないと思った。その力を持つことを躊躇ってはいけないと思った。それの何が間違っているって言うんだろう。言ったらカヅキはたぶん、間違ってるって言うんだ。でもその理由はきっとカヅキには分からない。カヅキは馬鹿だから。シマウマだから。

「というのも夢で、サイはカプセルの中でミイラになっていて、本当は、蜘蛛の温床になってるだけなんじゃないかなあ」

俺の脳の中でシマウマが言った。それはカヅキだったかもしれないし、他の誰かだったかもしれない。だが、俺は少しも躊躇うことが出来なかった。訓練でやったように、両手を真っ直ぐ掲げて対象に銃を向け、引き金を絞った。パンという渇いた発砲音がした。シマウマは地面に横たわって死んだ。だけど俺はそれを食べなかった。俺はライオンじゃなかった。だからそれを食べられなかった。





(王様の食事//130121)

忘却のクレイドル/サイとカヅキ
読破した勢いで書いてしまった。心の整理用・・・・・・。


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