慶次はことあるごとに何かしら買い与えようとする。簪や着物だとか帯飾などを手にとっては私に見せて、これはどうだと訊ねるのだ。それも大抵は、やたらと可愛らしい、言うなれば私とは正反対に位置する清楚な女性が身に着けるようなものである。私も最初こそ丁寧に断っていたものの、次第に面倒になって、旅に必要のないものや嵩張る荷物はいらないのだときっぱり言ったのだが、慶次は「そうだよな、ごめんなあ」と眉尻を下げ、申し訳無さそうにへにゃりと笑った。
その次の週辺りに市を覗いたとき、やはり慶次は帯飾りを手に取った。私はいっそ諦めにも似た気持ちで、それで気が収まるのならと今度は帯飾りを受け取ったが、慶次は「よく似合うよ」と周囲の桜がそれだけで花を咲かせそうな笑顔を見せた後に、また同じく「ごめん」と謝罪を一言寄越して私の頭を撫でた。そのときに私はようやく気が付いた。慶次は、私にそれらを与えたいわけではなく、与えようとすることを目的にしているのだと。
それから私は慶次が与えようとするそれらを全て断ることにしている。
そして今も私の着物の帯には、朱色の編み紐にトンボ玉がついた帯飾りだけがぶら下がっている。
「ほら、ここまで来れば京は目前だ!」
数歩先を歩いていた慶次が振り返って、にかりと笑った。私はそう頻繁に笑う人種ではないので頷いただけであったが、慶次はそれを気に留めることなくにこにことして、京の空気は久しぶりであるとか、早くご飯が食べたいだとかを言った。世の中には理由なく笑う人種と理由なしには笑えぬ人種がいるが、慶次は勿論前者である。彼は以前少年に財布を掏られた際にも、焦りはしたが、その少年を捕まえようともせず困ったように笑っていた。性懲りもなくその少年が再び現れたときも、母が病気なのだだとか、ありがちで嘘かどうかも判断が付かぬ言葉に仕方がないと苦笑しながらもその少年に貨幣を手渡し、ついでに私にも笑いかけた。私は返す表情に困ったが、ようするに、それが慶次という男の在り方なのであろう。
「あのスリ少年は元気にしてるかなあ。ほら、お母さんが病気なんだって言ってたあの子」
慶次が突然そのようなことを言ったので、私は思考を口に出していたのかと驚いた。が、よくよく考えればそのスリ少年に出会った辺りの通りであったので、「さあ、どうだろう」と投げ遣りにも聞こえる返事をした。
寂れた民家が風に吹かれて戸板を揺らされている。もう冬は目前だった。こういう季節には、このような場所に住む人間が大抵死ぬ。右斜め前をゆく慶次の背中へと視線を戻しながら、早く京に入りたいと思った。



そのときは越後を訪ねようと度々寄り道をしながら北上していたときで、何度か野宿を繰り返していた。山賊に襲われたりというのも珍しくない為、そういう時は大抵、見張りを一人立てて片方が睡眠を取るという体制を採る。
慶次は遠慮の欠片もなく焚き火の傍に転がって寝るが、私はそこまで彼に気を許してはいないし、許してはいけないとも思っているため、木に背を預け片膝を立てた状態で休息をするのが常だった。
その日、丁度月が真上に到達したあたりだろうか、先に寝ていた慶次が起き出してきて、いつものように交代しようと言った。山中には夏のじっとりした湿り気が漂い、嫌に熱い夜であった。脇ではジージーと時間を違った蝉が鳴いているし、眠り心地が良い空間とはお世辞にも言えそうにない。それでも睡眠は取らねばならぬため、私は瞼を閉じ、汗が伝う感覚を妙にリアルに感じながらも、うつらうつらとした、遠くから見る霧雨のように煙った夢を見、落ちては浮き上がるというようなことを繰り返していた。
何時間経過したころだったろうか。明確な時間感覚など有るはずもないが、交代にはまだ遠いだろう時、まどろみの途切れを感じて瞼を細く開けると、こちらが驚くほどの真剣な表情をして覗き込むようにしていた慶次と目が合った。だが、思わず言葉を失った私ほど慶次は驚いていなかった。ゆっくりと手を下ろし(その時に初めて慶次の手が私の頬に触れそうなほど近くにあったことを知覚した)そして俄に目を細めるのだ。
「起こしちゃったか。ごめん」
そう言う慶次はいつもの表情に戻っていたが、その眼にはまだ先ほどの面影があった。
「何か、あったの?」
「・・・・・・いいや。こそ眠りづらそうにしていたけど、悪い夢でも見た?」
慶次の持っている沢山の笑顔の中で、最も中身を伴わないそれを。無意識だろうに、こちらの言葉を封じて優しさとする。私はゆるゆると首を振り、ただ暑かっただけだと答えた。蝉はもう皆黙っていた。眠り方を忘れるのはきっと人間だけで、だから人間は動物と呼ぶに値しない。



慶次は私に好意を持っているけれど、それは彼のよく言う恋や愛の類では決してなかった。私とて長い月日を共にしてきたのだから情くらいは湧いているが、それでも同じく恋慕ではない。
その証拠に、――恐らくこれは慶次自身すら気付いていないことだが――伊達や真田どころか、島津などにまで「恋をしろ」と言ってのける慶次は、私にだけはそれを説かなかった。
それこそ長い月日を共にして、たったの一度も。
茶屋で団子などを摘んでいるとき、「はいま恋をしてる?」と聞いたのみで、首を横に振った私に「そっか」と言った、それだけの会話がそれに類する唯一のものである。
だが、そうである一方で時折慈しむような顔をすることもあった。まるで慶次が私に"そういった感情"を抱いているようだと錯覚させるほどの、優しくも悲しい表情。それは、そう、昔の親友だという人のことを意図してあっけらかんとした風に、しかしそれでいて大切そうに語ったときの表情に酷似した、博愛主義めいた彼の珍しくも傾いた愛情を思わせるものであった。
慶次はそうやって一貫しない、言うなれば心の揺らぎを零すように見せる。
そういう時には大抵、私の頭の中には何への忠告なのか分からぬ警鐘が鳴り響き、距離を置こうとしてしまう、というようなことが度々あった。ようするに、そのせいで私は彼との心の距離が測れないのだった。
私は元々慶次のような人間を苦手とするところがあるが、そのゆらゆらした様子もそれに拍車を掛けているのであろう。
彼の鳶色の眼は漣を連れている。



「まずはあっちの市に行こう。食料を調達したいし、もお腹空いたんじゃない?」
やがて街に辿りついた頃、慶次が言った。先ほどまで慶次の独り言に相槌を打つようかのように鳴いていた夢吉は、疲れたのか慶次のかぶいた衣装に潜り込み眠っている。
「そうね。何より慶次の腹の虫は限界みたいだし」
さらりと少し生真面目な調子で、しかし長らくの付き合いで冗談と分かるよう切り返すと、丁度慶次の腹が鳴いた。少しだけ眼を開けた夢吉が非難するようにキィ・・・・・・と小さく鳴き、慶次が照れたように頭を掻く。
自然と道の角を曲がり進んでゆくと、確かに市を出している通りがすぐそこにあるらしく、はみ出した布や積まれた野菜が見えている。私たちはそのまま足を進めた。朝餉には少し遅いため、丁度町人たちが減った頃合だろうか。まばらにしか人がいないというわけではないが、どちらかというと閑散としていた。板の台に乗り切らない瓜が広げられた麻布に乱雑に転がしてあるのを、慶次が品定めするように眺め始めている。対角線上である道の向こう側では町人たちが数人集まって雑談をしていた。私は慶次から少し離れてある程度日持ちする食料を物色し始めることにした。冬だからこそ作物という作物は殆ど無いのである。恐らくこの市が開かれるのも今年最後かそれに近いものだろう。
と、不意に番をしていた老婦人が顔を上げて私を見、あっと声を上げた。漬物屋で、独特のにおいが漂っているのだが、どうしてか私の身体は妙に力が入ったために強張り、警戒のような態勢を取ってしまった。本能の故障かも分からぬ。ただ、あの頭の芯を揺さぶるような警鐘が、どんどんと音を増しながら響いていたのである。
彼女が見ているのが私でいなければいい。そう思うのに、周囲を確認するまでもなく彼女が見ている方には私しか存在しておらず、集う町人達とは距離が開きすぎている。
私は心の中で耳を塞ぐようにしながら、仕方なくその老婦人へと顔を向けた。
そうすると、老婦人は何故だか嬉しそうに笑ったのであった。
「やっぱりねねちゃんじゃないか。元気にしていたかい?」
警鐘はふっと止んだ。あまりに唐突に・・・・・・まるで耳が限界を超え、音を察知できなくなったかのように。
「・・・・・・あの、」
「ということはあの後ろ姿は慶次だね?相変わらず無茶をやってるのかい」
「すみません。人違いだと思います。彼は慶次ですが、私は――ねねという名ではありません」
老婦人が一体何を言うのだ、とでもいう顔で眉を潜めたとき、頭の上に微かな重みが生じた。慶次の左手だった。
「慶次・・・・・・」
ほっと息を吐いて、手に篭った力を抜く。おそらく知人であろう人間が現れたことで、私が部外にゆけると思ったのである。
しかし――広がった安堵は、高い位置にある彼の顔を見上げた瞬間、強張りに変わった。
「ばあちゃん、相変わらずボケてんなあ。この子はねねじゃないよ」
彼の名の後に、私はなんと言おうとしていたのだろう。今となっては知れない、遠いところで言葉は失われてしまった。
くしゃりと、僅かに力の篭った彼の左手が私の髪を乱して。
私は彼の表情を見てしまったことに後悔を・・・・・・した。
彼と老婦人が旧知の仲であることは明白であったし、それがどうということではないのに、そこに存在した誰かの名前だけが実体の無い心というものを明確に貫いてゆく。
幾度となく開いた距離を、知るべきでないと聞かずにいた過去を、問答無用に気管へと押し込まれるような吐き気。
「私をからかおうとしているのかい?こんなにも顔がそっくりな別人なんて居るはずがないじゃないの」
「・・・・・・居るんだよ。この子は違うんだ」
「またそんなことを・・・・・・」
ぐるり、視界が回る。冷気に焼かれた喉が痛い。
「おばあさん」
唐突に私が口を挟んだことに一番驚いていたのは慶次だった。老婦人は少し眼を見開いたあと、「いやね、そんな他人行儀な呼び方をして」とヒラヒラと手を振ったが、私は呼び名を改めることなくもう一度会話を仕切りなおした。
「私、記憶喪失なんです。だから、ねねという名のときのことを覚えていないんです。ごめんなさい」
、ちょっと」
「なんとまあ・・・・・・それは本当かい」
「ええ。だから私のことは別の人間だと思っていただけませんか。どうかお願いします」
慶次が慌てて私を問いただそうとしていたが、無言で捻じ伏せて老婦人と視線を合わせる。老婦人は戸惑っていたものの、僅かに頷きかけたのを確認するや否や、私はすぐさま別れを告げて慶次を引っ張り戦線を離脱した。
「待ってよ、」
漬物屋を通り過ぎ、市を抜けようとずんずんと歩を進める。意識は全て足と慶次の腕を握る右手のみへと送り、他の何にもエネルギーを与えないようにと、それだけを。
ってば、なあ!」
ぎゅうと握り締めた慶次の腕は思いのほか太くて、そういえば彼に触れるのは稀であったと今更ながら思った。
口からは白い息が漏れ出ているのに、手には汗が滲み滑りそうになる。「!」珍しく強い語調に仕方なく手を離し振り返ると、慶次は途方に暮れたような顔だった。
市から少し離れ、丁度町人が集まって話している向かい辺りである。私はただひたすらに慶次をあの場から引き離してやりたかっただけであった。けれど今となっては、それすらも無駄であったようにも思う。今更一番大切な想いのやりとりを出来るほど、私たちは優れてはいない。
だから私は慶次が礼か謝罪でいつものように流してくれるなら、何も言うつもりはなかったのだ。
だのに、慶次の躊躇いがちに開かれた口から出たのは、いっそ懇願かと聞き紛うような生々しい願いであった。
「記憶喪失っていうのは、・・・・・・」
言葉にならぬ先を私が埋めるようにとしたそれは、卑怯ゆえにどこまでも脆弱。
私を針山だと勘違いするのはやめて貰えまいかと、思わず声を張り上げそうになった。
「・・・・・・・・物心付いて今までで大きく欠けた記憶は無いつもりだけれど?」
声が僅かに震えたことにも気付かない慶次の鈍感よりも、生じてしまった失望よりも、傷つけられたという事実が何より不快だった。
嘘だと分かっているけれど期待せざるを得ないのだと、そう自ら書き記したかのように苦味を帯びたそれ。
本当に記憶喪失であって、私が私ではない誰かであることを一瞬でも真に望まれた、ただそれだけのことが胃液を逆流させ気管を焦がす。大切ではなかった。慶次など、長らく居るから情が移った程度で、一番大切なものは他にあって、だからそんなものではないはずであった。だがそれでも痛みが感情を駆逐してゆくのを、どうして止めることができる。
「・・・・・・もう、行こう」
それがどれだけの気力を振り絞って発したものであったか、慶次が知ることは一生ないだろう。乾燥した空気が頬をなで、口に入り、口内がひり付く程に水分を失っても、それを唾液で無理矢理に満たそうとも、想いと共に飲み込んだ唾液の味は空っぽとしか言いようがなくても。口を閉ざさねばならないときがあることを忘れることは出来ない。
春を知らぬ冬芽を摘むことが是とされる時もある。
やがて慶次は俄かに微笑んで、そうだね、と言った。酷い奴だと思った。だから慶次が歩み寄り私の横へと並んだ頃、進行方向へと顔を逸らしながら、これくらいは許せと願うように針を投げ返してやった。
「前言ってた、親友だった人のことなの」
「・・・・・・そうだよ」
それは、傷つける為に発した言葉を後悔しそうになるほどの微笑。
「そのねねって人、どうなったの?」
解を殆ど教えられているというのに形にしたのは、慶次自身にそれを答えとして言って欲しかったからであった。けれど、慶次は逃げた。苦笑していた。そして何一つとして答えにはしなかったのだった。
沈黙が冬の静けさと混ざり合い、木の葉が地面に擦れる音すら聞こえている。離れた村人の話でさえ耳に届くほどだった。――そういえばここでスリをしてた少年はどうしたんだい。ああ、あいつは道端で死んじまってたから葬ってやったよ。――慶次の胸元のお守りが風に弄ばれている。寒かったのか、夢吉が目を覚まして小さく鳴き、伸びをした。
慶次が私を見るとき私を見てはいなかった、その針のような形をした事実が文字通り腑へと落ちるよう。納得をさせられてしまったのである。それは誰かに口伝に聞くよりも、信じなければいけない分、残酷であった。
陽が今更ながら上り、道を暖め始めている。その嘘くさいぬくもりが強いほど夜は一段と冷え込むだろう。私は、眠りを忘れた動物が冬眠できることを祈るように願うしかなかった。





(冬囲い//120229)

難産。最初から最後まで冬の凍てついた空気に包まれているような話。


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