風船というものがある。
この国の紙で出来たものとは違って、南蛮製のそれには空気よりも軽いものが入っており、手を離すと飛んでいくのだそうだ。
僕はそれを、紙風船を弾ませているを見て思い出していた。は暇を持て余しているのか、何かを考えているような無表情のまま、ただ手遊びとして紙風船を弾いていた。今朝町で助けた子供に貰ったのだという。
「半兵衛はさあ」
はその時に一人、浪人を斬ったらしい。
「最初に人を斬った時の理由を覚えてる?」
どうということもない、日常的であまりに些末なことだ。は女武士であり、幼い頃から秀吉の為に働き続けている。人を殺した数は僕と似たり寄ったりだろうというくらいに、血を浴びている。なのには時折こうして戯言を吐く。
僕は文台に向かったまま、簡素に「いや」とだけ答えた。
僕にとっての命はとても軽い。命の重み、などという言葉があるが、大体においてそんなものを感じるのは戦場にいないときだ。戦場にいるとき、命は怖気が立つほど軽い。僕にはそれが重みがあることよりもずっと恐ろしい。
質量を持って地に足をついているのは身体だけで、命というのは空気よりも軽く、手を離すと風に吹かれて飛んでいってしまう。
「だよね。私なんて、その人の顔すら覚えてない」
まるで罪深いことのように言うので、僕は内心で嘲った。だがそれを億尾にも出さず、僕はまた淡白に相槌を打った。
「ふうん」
文台に広げた紙にそっと筆を落とせば、じわりと滲んで黒い染みが出来る。ついとみた障子の向こうには僕が手紙の書き出しとした時候の挨拶よりも味気ない景色が広がっている。冬の、白で閉ざされた世界だ。そこには風流な美しさはなく、ただただくすんでいる。
ふいに、断続的に続いていた紙風船を弾く音が途絶えた。横目でちらりとを見ると、彼女は紙風船を両手で受け止めてぼんやりと中空に視線を漂わせていた。
「でもね、半兵衛、私、その次からの理由は覚えているわ」
「人を斬り殺す理由?」
「そう。私は、元を取りたかったの。だから殺すのよ」
の言葉に僕は漸く合点が言った。の言おうとしていることを察知してしまったのだ。
僕はそれでほんの一瞬筆の動きを止めてしまったが、はそれには気づかずに薄く微笑んで続けた。
「今まで奪った命の為にと思って、殺した。無駄にしないようにって・・・・・・・しかも殺していくたびにそれは積み重なって、私は私の目的を最後まで賭さなくてはならなくなる。戦に勝たなければならなくなる。ある意味強迫観念にも近いもので、ただただ夢を叶えなければと、思う」

「まるで賭け事みたい。一度お金を費やせば、そのお金を無駄にしないためにも何かを得なければならないんだ」
うわごとのように呟かれたのはやはり戯言以外の何者でもない。もしもここに秀吉がいたならば、僕はその言葉の先をなんとしてでも止めていただろう。それほどの、いわば戦国を生きるものたちが心に仕舞いこんだタブーだった。だが、僕は今、あえて止めさせることはしなかった。言わせなければが駄目になってしまう、そう、思った。
「ねえ半兵衛、夢はいつ終わるのかなあ」
が平気で風船を手放すだろうことを僕は知っている。僕の手にある、この、どうしても執着してならないものを、風船にくくりつけた糸を、は刀を握るのに邪魔だというだけで簡単に手放すことができる。僕にはそれが酷く羨ましかった。
「・・・・・・さあね」
あるとき僕は、空高くへ飛んでいった風船の行き先が気になって調べたことがある。その頃、僕は子供だった。地にしっかりと足をつき、空の果てを知らない子供だった。
でも今、僕は風船がある高みに到達すると膨張して割れてしまうことも知っていて、地から解き放たれて飛んでいくことの恐ろしさに怯えている。
「一人しか叶えられることのない願い事を皆でするなんてばかみたいだ」
パン、と彼女の両手が紙風船を潰した。
僕は畳みに視線を落として、痛んでいる部分を一つ一つ数えていった。僕はもうの話をまともに聞く気がなかった。
本当にそうだ、と心の中で僕が呟いている。
まだ僕は夢の途中に立っていて、道の先は遠く、光でけぶっている。そしてそこは織田信長が目指す場所でも伊達政宗が目指す場所でもなく、おそらく、が目指す場所とも微妙に差異があるだろう。それでも僕はこの夢の為に命を減らし、その跡を秀吉に残さなくてはならない。だから、例えどんなに僕より尊い夢を持つ誰かでも、僕の夢の代わりにさせてはいけない。一つしか願いが叶わないのならそれは僕のものであり秀吉のものでなければならない。他の願いはどこかで斬り捨て、埋めるしかない。
を見る。畳の上で紙風船はくしゃくしゃになって潰れている。障子の向こうで雪が眩く明かっている。の顔の輪郭を仄かに光らせて、そして、は拾い上げた紙風船に唇を近づけ、ふうと息を吹き込んだ。浮かばない風船を作るの吐息の色が僕にはそのまま見えるようだった。喉が焼けるように痛むのに咳をすることも憚られ、込み上げる血を耐えるように飲み込むしかできない。胸の直ぐ下が酷く重くて今すぐ消えてしまいたくなるような思いがそこにあることを知っている。僕の願い事は一つじゃあなかった。それを、僕が、一つにした。僕のささやかで愚かしいもう一つの夢もまた、埋めるべきものだった。





(自然淘汰//121215)



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