何かが終わる場所というのにの心は捕らえられている。線路の先、虹の端っこ、地平線の向こう、宇宙の隅。今の自分には絶対に届かないもの、その終わりをは見たがった。それは、ここから抜け出したいという思いと一緒に、終わらない何かを求めている風でもあった。
「飛行機雲ってさ、どこで終わるのかな」
むき出しのコンクリートはがたがたで、通学時にはいつもここで自転車が跳ねる。その、いつからあるのかも分からない橋の上で、俺とは並んで立っていた。は錆付いた金網に、汚れを気にすることなく体重を掛けて、同じく汚れきった川に身を乗り出すようにしていた。まるで、その薄藍色の空に浮かぶ飛行機雲を千切ろうとするみたいに。
俺は排気ガスの雲になんかこれっぽっちも興味がないので、ぼんやりとケータイを弄っていた。
液晶画面の発光が眩しくて、何度か目を眇める。
「あんまり乗り出すと、落ちるよ」
はむくれた。
「もー、考える気ないでしょ」
「さあ。着陸したら切れるんじゃないの」
「その前になくなってるでしょ!」
投げやりな俺を非難して、はため息をつく。金網に頬杖をついてぼんやりする横顔に、淡い月明かりが当たっている。一陣の風が吹いて、彼女の髪を巻き上げた。ワンピースがはためいて、足のすっと落ちる曲線が晒される。それでもは、ぼんやりと川面を見るのだった。
「それで? とくに情緒もなく蒸し暑い夜に、俺様を辺鄙な場所へ呼び出した理由は?」
ケータイを閉じてポケットに仕舞った。その空いた手で口を覆い、欠伸をかみ殺すと、目の前がじわじわとぼやけてくる。蝙蝠が一羽、電線の傍を飛んでいた。
明らかにだるそうな俺を見ても、は帰ろうとは言わなかった。それどころか、良くぞ聞いてくれました、とでも言うように不適に笑った。
がこういう笑い方をするときは、碌なことがない。続きの言葉は案の定だった。
「冒険がしたいの」
「はあ、そう・・・・・・」
「せっかくだし、降りてみない?」
立ち入り禁止とでかでかと書かれている看板の向こうの、これまた入るなと言わんばかりの高い堤防が築かれている川を指差して、言う。
そのあどけない表情を見ると、面倒くさいなあと思いながらも、俺は従ってしまうのだ。
鎖を跨いで階段を下りていくと、繁茂する草の臭いがむわっと広がった。どの草も背が高く、腰近くまである。その上、実やら花やらをつけていて、進めば進むほど余計なものがズボンに付着した。
そこまでして降りた川というのも、また、汚かった。覗き込むと、空き缶やらビニール袋が岩に引っかかっているし、川原にはガラスの破片も散らばっている。色も淀んでいて、藻や泥の色をしていた。
「こんな汚い川を間近で見て楽しいですか、お嬢さん」
「文句を言わないの! いいから早く、こっちに来てよ」
は軽い足取りで川から露出する岩を渡っていく。その様子は慣れきっていて、何度も来ているということが嫌でも察せられた。
は冒険が好きだった。山登りに行くと、すぐに脇道に逸れたがって、気がつけば滝の傍に降りようとしている。濡れるのも厭わず手を突き出しては、痛いだの冷たいだの言って、今度はしゃがみこんで魚を探す。まるで子供だった。でも俺は、そうやって振り回されることが嫌いじゃなかった。俺は、自分の理性が冒険をやめようとするから、みたいなのがいないとどこにも行けないのだった。
俺はに甘いのだと、旦那でさえ言う。俺もそう思う。それでも恋は惚れた方が負けだ。
どこかに行きたがるを安全な手元にとどめておくことはできなくて、俺たちはどこかに行くしかない。何かを見つけ続けなければ、この生に意味を見出せないと言う、愚かな少年少女に成り果ててでも。
重い腰を上げてを追えば、「仕草がじじくさい」と彼女は笑う。
立ち止まっていたのは、柳の木の下だった。糸のような若葉色を暖簾のように垂れて、それがゆらゆらと揺れていた。はそこにまっすぐに立っていた。
「怪談に使われそうな柳だ・・・・・・」
「そんなこと言わない! ほら、あれ見てよ」
が指差したのは小さな滝だった。滝と呼ぶのもためらうくらいのちょっとした段差で、大きな岩の隙間を水が勢いよく流れ落ちている。ザアザアと雨の激しい時のような音がしていて、その近くは草よりも川の水の臭いが濃厚だった。
弱い月の光を反射させている水面には、白い花びらが踊らされている。風が吹く度にどこからか流れ着いて、光りながらくるくると回った。
「綺麗でしょ」
誇らしげにが言う。確かに水の汚さが分からなくなるね、と言いそうになった自分は感性がかなり捻くれている。しかし、木漏れ日のように注ぐ月影が、に掛かって綺麗だったから、素直に頷いた。
「あっ」
その瞬間、ぱしゃん、と滝とは違う水音がした。見れば、へしゃげた野球のボールが流れてきていた。
「もー! なにこのボール、空気も抜けてるし・・・・・・今流れて来なくてもいいのに!」
「ムードが台無し?」
「台無し!」
拗ねながらボールを拾うを見ると、笑いが込み上げてきた。隠し切れなくてクスクスと声が漏れて、気づいたは怒った。
「まあまあ、青春の証拠じゃん。そのまま流しちゃおうよ」
言いながらの手からボールを取って、川に戻してやる。白い、名も知らない花と一緒にそれは流れていった。俺たちは、なんとなく、見えなくなるまで見送ってしまった。
「佐助のせいで、水質汚染に加担しちゃった」
「あ、そういうこと言っちゃうんだ」
軽口を叩きつつ、もう見えない白い影を思い浮かべる。
「ねえ」
次にが言い出すことは分かっていた。けれど、あえて最後まで聞くことにした。
「あのボール、どこまで行けるかな」
やっぱり、と思う。思うけど、気づいていたとは言わない。
「さあ。空気が少ないから、どこかで沈んじゃうかも」
の、遠くを見やる顔。どこまでも流れていきそうな、花びら。
「でも、どこまでも行くかもね。この川が枯れるまではわからないよ」
そう、俺たちには、あのボールの行き先も分からない。俺たちは狭い町で生きている。それは、電車が発達しても、車を手に入れたって、きっと変わらない。俺たちを囲っているものはなくても、ここは閉ざされた箱庭だ。なぜなら俺たちには生活があって、将来があって、ここから連綿と続くぼんやりとした何かがある。それを断ち切ることはできなかった。
けれど、明日も明後日もきっとあのボールは流れていく。どこかで引っかかったとしても、いつか雨が降って、増水した川をまた流れていくだろう。誰かに拾われて、また投げ捨てられるかもしれない。そうして風化するまで旅を続けていくのだ。膨大な時間の中を、どこまでも続くように思える、その先を。
「だからどこまでも行けるんだよ」
あのボールはだった。はどこまでも行けた。狭い場所に根付いて、そこから動かなくなったら、は命を失う。生きていても、そこにはいない。はすべてを投げ捨ててでも、進み続けることができる人だった。だから俺はが好きで、どうしようもなく、焦がれる。彼女が岩に引っかかることがあるなら、俺がそれを救い上げてやりたいと思う。どこまでも、行きたいと思う。
はまだ下流を見つめている。何かが終わる場所を、その目に映そうとしている。

その命の名前を、俺は呼んだ。
「なに、佐助」
振り返ったの手を引いて、俺はその少し赤い頬にキスをした。生ぬるい、湿気たキスだった。纏わりつくような風と熱気の中、は立ち尽くしていた。同じ時間の同じ場所で俺たちは生きていた。それを、俺は確かめたかった。
「・・・・・・は?」
呆けているは、目を見開いて俺を凝視している。次の瞬間にはそれが見る見る紅潮して、怒鳴りつけるだろう。口をぱくぱくとさせるかもしれない。考えると今更恥ずかしくなって、俺の方が火照ってしまった。ああ、もう、なんだって青春ってやつはこんなにもぬくいんだ!
俺は川に飛び込んだ。水飛沫が散って、音が辺りに大きく響いた。
は驚きのあまりか、その飛沫を避けることもできずにずぶ濡れになった。
「ねえ、ちょっと、な、なん・・・・・・なにしてんの!?」
は俺を追うべきか迷っているみたいだった。涙ぐんでいるみたいに潤んだ瞳に、水面を映している。
こんなに暑い日なのに水は冷たくて、ズボンはすぐにぐっしょりと重たくなった。幸せだった。俺も冒険ができる、そう思った。常識を捨てて、先のことなんか見ずに、馬鹿なことができる。と一緒に行ける。俺はあのボールを追える。
「俺はと行くよ」
に手を差し伸べる。唖然としているの手を、引く。
握り締めた手はお互いに汗ばんでいた。
「追いかけるんでしょ?」
夜の闇が深まっていた。柳はその姿を溶かして、陰のように立っている。鈴虫が何匹か鳴き始めた。夏休みは、もう終わろうとしていた。
は困ったように相好を崩して、それから大きく跳んだ。
「川に入る必要はなかったのに!」
俺はの手を離さなかった。
そうして俺たちは、どこかに確実にある最後を探して、終わりを知らない旅をするんだ。





(wanderers//130513)

BGMは「いのちの名前」
ずっと前に書いたものを、気に入っていたのでリメイクした。
近所の川の堤防の傍に、不似合いな柳が生えてきたのだけれど、いつの間にか切られていて寂しかった。

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