職員室で操作されたのか、暖房の電源が勝手に入った。稼動音を聞きながらその熱風に触れて、私は初めて自分の身体が驚くほど冷え切っていたことに気がついた。暖かいものに触れた後の寒さは格別で、それは手足などの末端の感覚を遠慮なく奪っていくのだ。

たぶん先ほどの私はその状態だった。佐助君の傍にいた頃の私は寒さを知らなくて、そこは暖房の効きすぎた部屋のようなもので、眩暈すら起こるくらいだったのに、いつだったか、何の前触れもなくそこから一気に突き落とされて氷水に落ちた。唯一救いだったのは、絶望を思う脳みそが一時的に凍ってくれたこと。だけどそれも次第に溶け出して、水になっては目の端っこから落ちていくだけだった。私はそんな水滴を忌まわしく思いながら想像する。もしも逆に、氷水から救い上げられて彼に会ったのだったら。温度差の激しさで私は粉々になったろうか。それもいい。

教室の空気はよほど冷え切っていたようで、エアコンは過労死するんじゃないかというくらい自棄になって呼吸をしている。私は佐助君のいたあの日を思い出そうとした。そのとき付いていたのは暖房だったか、クーラーだったか。窓を横切って落ちていったのは紅葉だったか桜だったか。思い出せないだろうことを知っているから出来る行為を延々と続けるのだ。
自分を守るために大切な記憶を消していく心の作用のおかげで、その日がいつの何時でどんな季節だったかは曖昧になっていた。だから私は私の記憶の温度も消せると、そう思っていられた。でも陳腐な暗示は何日もは続かない。これだけ冷え切ったり暖まったりを繰り返しても、私の中のぬくもりは驚くほど確かな輪郭を持って保管されている。
どの季節にも毎朝誰よりも先に登校する佐助君は、教室の鍵を開けて、秋や春なら窓を開放して、夏や冬なら冷暖房の電源をつける。それがいつの間にか当たり前になって繰り返されるようになった彼の仕事だった。今日もきっとそうだと妙な確信があった。この暖房をつけたのは彼で、私はまた彼に近い、暖かい場所に来てしまったのだと。冷凍することで仮死していた後悔が溶け出して波になって押しよせる。今度こそ私は砕け散るかもしれない。




それは、とても可愛い女の子だった。

『傘、無くしたの?』
教室の片隅で、佐助君は宝物を大切に隠し持っているような顔をしていた。笑顔の愛らしいその子を笑わせようとする佐助君ははにかむ。こんなに酷い雨の日に傘を盗られたらしい女の子はふくれっ面。『また他人事みたいに!』佐助君は笑った。
『ならよかった、一緒に入りたかったんだ』
盗んだ人に感謝したいくらいだ、そんなことを恥ずかしそうに(私になら真顔で冗談みたくいうくせに)言う佐助君に、女の子は不機嫌な顔を一変させて、その様子はまるで天使のようだった。
私と彼らは世界規模で断絶されていて、向こうに見えるのは何千キロと離れた場所のよう。いつもは音が溢れかえっているはずの空間は無音になって、情景はすべて彼らを囲う演出として存在し、私の心の代弁をすることは放棄。おまけに虹までが架かりかけていた。明らかな全ての終わり。それも、改めて失くしたものは何も無いままの自然な終わり方だった。そもそも私は私の心が報われる未来が来るなんて最初から信じてなかったのだ。ただ、佐助君のなかから私の温度が消えるのだと、それを想う虚しさは誤魔化せなかった。ノートを貸し渡すときに触れた手も、体育のときに並んで座って当たった肩も、私が机に突っ伏して寝ているときに小突いてきたときのそれも、なにもかも。すべてが彼女のものに塗り替えられる。佐助君の脳みその容量は残らず彼女の思い出を記憶する為の物になって、そこに私の片鱗は無くて、暖かい部屋で凍えている私だけが一瞬の温度を覚えている。それを悲しまずに他の何を悲しむために悲哀の心はあるというのか。





(メランコリー//11XXXX)

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