どうして人魚姫は泡にならなければならなかったのだろう。
ベッドの上、白い天上を眺める有意義な昼間に考えるのはそんなことだった。
人魚姫と魔女との契約には、人間に成るための薬と美しい声を交換するというギブアンドテイクの法則がふんだんに使われており、世の厳しさを感じる・・・などということはどうでもいいのだが、問題はそこにある「結ばれなければ泡になる」という極めて過酷な条件のことだ。例えば魔女視点からみるに、声を手に入れた時点で魔女は利益を確保したわけであって、彼女もわざとそのようなペナルティを課したわけではないだろう。つまりは「泡になる」という結果は魔法の副作用だと考えられる。
だとするならそれは、人魚が人間になるために背負わなければならなかった対価。

「死の呪文の練習台にでもなりたいの?」

命を掛けて目指した到達点がこんな生き物なのだから、私には憐れむくらいしか出来ない。

「・・・・・・おはようリドル。何をそんなに怒っているのか私にはさっぱりだよ」

いつに増して不機嫌そうなリドルの顔はそれでも美麗であり、写真に収めればどの角度からのものでも値段を付けられる、という価格計算が頭を巡っていったけれど、それを口に出すと彼の眉間の皺が更に増えそうだったのでやめた。触らぬ神になんとやら、だ。
ともかくも寮にご帰還されたリドルくんは私が気に食わないよう。
「君が当然の如く僕のベッドを占拠しているのが気に入らないんだよ」
なるほど、私が彼の高級羽毛布団を丸め抱えながらゴロゴロしているのが駄目なのか。
「それと、そこでお菓子を食べるのもやめてくれないかい」
日本から取り寄せたのり塩味のポテチもお気に召さないらしい。許容出来ないものが多いと生き辛そうだ。
「粉が落ちる」
「杖一振りで掃除できるんだから良いじゃない」
「・・・・・ハァ。本当に君は・・・・・・・」
疲れているらしく、ツッコミにもキレが無い。前髪を掻き上げながらこちらに歩み寄る速度は緩やかなものだ。彼が口にしたのが直接的な原因ではないだろうが、私の寛いだ状態がその機嫌の悪さを作り出す一端を担っているのは確からしい。ベッドから退くべきかとも思ったが、その前にリドルが脇に座った。らしくない乱暴さにスプリングが小さく悲鳴を上げる。私は寝転んだままリドルに顔を向け、ベッドとしては私の方が主人になってほしいんじゃなかろうか、と考えた。

・・・・・・ささやかな戯れをしている間にも、リドルは彼を彼たらしめる何かを零していく。

窓から差し込む光は僅かに暖かく、春・・・それも日本なら丁度卒業式という頃合だろう。その季節を思わせる。
私たちの卒業は夏だ。だからあと少しの猶予はあるはずなのだが、その季節性のせいだろうか、今からその瞬間が思われて少量の寂寥が心に滲んだ。なぜならその別れは人生にあるべく他の別れとは違い、残るものが何も無い―――全てが泡に変わるような瞬間だろうから。

「・・・・・・・・・」

人を殺したの、とは言えなかったのだ。
血の香りはしない。屍肉の香りもない。当然だ、彼の殺しは"そういった方法"で行われるものじゃない。
だから杖一振りの行為の残り香や余韻などは無いはずだった。例えリドルが少々不機嫌になろうと、それは彼が目指す道への一歩が踏み出された喜びを抑えるための反作用のようなもので、彼の本質を変容させるものじゃない。何一つ改めて言うべき言葉はなくて、ただ彼の周りに色濃く残っている死の香りが不快だった。

「・・・リドルは」

リドルはどうして私を殺さないのだろう。
死喰い人に加われとの誘いを蹴った私に、リドルは予想通りだとでも言うような顔で「そう」と頷いただけだ。恐らく、少なからず彼に歩み寄れていた部分はあるだろう。それでもそんな些細なものが私の存在を許す理由にはなりえなかったはずで、私にはただ一つそれだけが不可解だった。

たぶん、私とリドルはどこか似ていて、だからその部分だけを共有しあい手を取り合って生きることは可能だった。
もしかしたらリドルはそれを望んでいたのかもしれない。今になって思えば、彼はそんな部品的な友人すら持ち合わせておらず、それ故にこんな私を部分的にでも必要としていたのだとも考えられる。
拒絶した以上、どれも今更な話ではあるが。

「リドルの欲しいものってなに?」

唐突な私の質問に、なにやら考えていたらしいリドルは振り向いて「なんだろうね」と言った。茶化しているようで、それが本質を伴った言葉であることは分かる。リドルはそれを手に入れる為の手段も方法も心得ていて、その為に突き進んでいるというのに、「それ」の正体を本当の意味では知らないのだ。マグルを殺すのも過程にすぎず、自らの安定を手に入れる手段で、だから彼の目的は後付けされる予定にある。丁度、明確に目的を持たぬまま人間になろうとした人魚のように。

「どうしてそんなことを訊くんだい?」
「世の中はギブアンドテイクらしいから」
「へぇ、じゃあは何が欲しいの?」
「リドル」

穏やかで冷たい笑みを創作していたはずの彼は、それを少しだけ崩して透明な表情をした。

「リドルの心を頂戴」
「・・・あげてるよ」
「全部だよ」

紛い物と混ぜ合わせて量増ししたそれじゃないくて、本当のリドルを全部。
ジョークテイストで調理した私の本音が無様だったのか、空気を読まない鳥が穏やかな気候の中で囀り笑っていた。

「―――そう。全部ほしかったの。」

少しの沈黙のあと、リドルは零すように笑った。驚いたことに、せせら笑うとか鼻で笑うとかそういう類のものではなく、緩やかな目の細め方をしていた。
リドルには出来ないはずの表情を、していた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

言葉を失っている私をリドルは不思議そうに見る。普段滑りの良い口で嘘八百を並べる私が黙り込んだことを意外に思ったのかもしれない。
問われても困るので、早々にスイッチを切り替えた私は「食べる?」ポテチ袋をリドルの方へと差し出した。こんな調子でコロコロ話題を変えるのにも慣れたようで、リドルは素直に袋を受け取り、パッケージに描かれたじゃがいもを模したキャラをしげしげと眺めている。シュールな絵面だ。
もしも食べるならと、歯に青海苔が付着した優等生笑顔を浮かべるリドルを想像しながら、先に確保していたポテチ二枚をくちばし型に重ねる。そのまま口にくわえてもそもそと食しているとリドルは蔑むような憐れむような何とも言えない顔でこちらを見た。見下されても悲しいので、これは日本での伝統的な食べ方なのだと説明しておいたが。

パリパリパリパリ。

未来の闇の帝王が住まう部屋に響くとは到底思えない音だけが静寂の中に響く。いつの間にかリドルも口にしていたようで、美味しかったのだろうか、再び袋へと手を伸ばしていた。うつ伏せのまま首を捻り見上げると、ポテチですら上品に租借する姿が目に映る。その姿がどんなに自然のものでも、心には逆に不安が満ちていく。彼はこんな些細な行為にすら「自分」を感じさせない。
せめて私が教えた伝統的な食べ方を実践してくれればと、勝手に脳に描いたマヌケなリドルに少しだけ笑う。何が伝わったのか、リドルは嫌そうな顔をした。その表情の方が人工性が薄くて安心したなんて、彼には一生理解できないだろう話だ。

リドルは闇の帝王として世界に君臨する。
止められないから止めないのか、止める気がないから止めないのかは自分でも分からない。ただ、どちらにせよ結果が変わらないことは確かだった。
私の言葉は本当の意味で彼に届くことはない。私がどれほど心を込め、言葉を尽くし、あらん限りの技法を用いて表現したって同じことだ。つまりは、リドルが耳を閉ざしている以上、私が彼の鼓膜を揺らす術はない。
おそらく、人魚姫が失ったのも声というよりは言葉に近い。
もしも彼女が人間の言葉を理解できたとして、声を持ったまま生きても。使い慣れない言葉に自分の意思を含ませることなど出来なかったろう。
その感覚は、十数年言葉を駆使し意思を疎通する術を使って生きた私が、彼に何も届けることが出来ない空虚さと同じ種のものに違いない。
なるほど、人魚姫がその終わりを受け入れたのは道理だったのかもしれない。

「泡になるのも悪くはないかもなぁ」
「は?」

ベッドの上で寝転がったまま伸びをすると、当然ながらリドルは前後関係のない私の呟きに眉を潜めた。
「リドルが好きだったのになぁ、って思ったんだよ」
訝しげな顔のままのリドルは意思疎通を諦めたらしく。眠いからそろそろベッドを返してよ、と心底呆れたような顔と共に溜息までプレゼントしてくださった。帝王直々のお願いなら仕方あるまいと諦め、素直に壁際に寄り半分ほどスペースを作ってやると、「全部だよ」リドルは私の頭を軽くはたいた。中身のない音がした。
「全部。・・・・・・・そっか、全部か」
上半身を起こしてベッドに座った私をリドルは見下ろしていて。そこで漸く気が付いたが、いつの間にか机上に移動しているポテトチップスの袋は空になっていた。気に入ったのかと訊ねようとすると、リドルは徐に私に向かって手を伸ばし、そうして今までの行為の結晶である私の寝癖を整えた。優しい手つきだった。

「そう、全部だ。」

僅かに目元を緩めての苦笑は春の気候そのままのようで。
何故だか人魚姫が消える朝が連想されて、感染った苦い微笑を滲ませるしかなかった。





(いつか人魚になるサカナへ//110616)

リドル「ポテチが全部食べたかったんだ」
ちなみにチップスターですら販売は1976年です本当にありがとうございました
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