兄が嫌いだ。





4年生になった。
残暑が酷く、かさついた熱気が体力を削り取るようにして照りつける秋の初め、僕は黒い犬を見つけた。

始業式から何日か経ち、新しい時間割を把握し始めた頃合。早くもスケジュール化してきた毎日にぼんやりとした気だるさを抱きながらも学生の本分は果たす、そんな風に曖昧で彷徨うような日々を過ごしていた。
今日も例外ではない。勿論それでも授業には出席したし、放課後にはいつものように図書館に向かった。が、どこかの学年の教師がいきなり無茶を言ったのだろう、レポートの締め切り前だと焦る生徒で満たされた空間にやはり漫然とした嫌気が指して、結果こうして校舎裏の影を探し歩くことになったのだ。

そしてそんな折、涼を取るのに丁度良さそうな場所に寝そべる犬を発見した。

大きな図体をしたその犬は、木の陰に身を摺り寄せて、自分の上を移動する木漏れ日を眩しそうに見ている。涼の取り方がどことなく人間臭い犬だなと思った。
「お前も」
「・・・・・!?」
「涼を取っているのですか」
こちらの存在に気づいていなかったらしい犬は、声を掛けるだけで大げさに身を震わせる。垂れていた耳がピンと立って、賞賛したくなるようなスピードで立ち上がったかと思うと、身を翻すと同時にしなやかに繰り出された前足で地面を蹴りつけ、「あっ」立ち去るのだ、と気づいたときには思わず声が漏れていた。引き止めようとしたわけではない。が、犬はピタリと立ち止まり僕に振り返った。次の言葉を待つように僕を見据えて。
予想外の反応に、言うべき言葉を――そもそも犬に言うべき言葉とは何なのかは不明だが――用意していなかった僕は大いに動揺した。立ち去るなら立ち去ればいい。なぜこちらを見る。僕はただ涼しいところで本を読みたいだけなのだ。なのに、「別に・・・去らなくてもいいですよ。僕はもう行きますから」なぜか犬に場所を譲っていた。意味が分からない。僕は何をしているんだろう。
どうしてこんな結果になったのか分からないままに踵を返す。溜息が漏れた。例え先に場所を占拠していたとして、そんな筋を通して犬に優しくしている僕は一体なんなのだろう。

「ワンッ」

犬が鳴いた。
驚き跳ねおきても鳴き声をあげなかった理性的な犬が、リンと響く声音を響かせて。
「ワンワンワンッ!」
無視をして足を進め、校舎に向かえば向かうほど煩く吼えた。
「・・・・・・・・・・・」
足を止めて振り返れば、木の根元に座りパタパタと耳を上下させる犬が居る。
「・・・・・、・・・・・。そこに座れと?」
本当に僕は何をしているんだろう。
頬の上を汗の玉がつうと伝い降りていく。
犬はもう一声鳴いた。





次の日にも犬は木の下にいた。
昨日の場所ではなく、少し外れた小さめの木陰の中。またしても僕が休憩するのに丁度いいと思った場所に気持ち良さそうに寝そべっていた。無意識にでも犬と同じ嗜好で場所選びをしている自分に頭を抱えたい衝動に駆られながらも、仕方なく隣に座る。昨日と同じ、間に人一人分の空間を置いた距離で。
犬は心なしか嬉しそうに目を細めていた。僕はその視線から逃げるように本を開く。間違えて昨日読み終えた方の本を持ってきていた。飽きているにもかかわらず僕はその本を読んだ。





次の日は犬はいなかった。僕は少し苛立っていたのでほっとした。木陰に座り込む。風に乗って、校舎からのざわめきが僅かに届く。兄は今夜罰則を受けるらしい。愚かだ。完璧なブラック家の当主候補だった兄を思い出すと、落ちぶれ具合に眉を顰めるしか出来ない。まだまだ先のはずの冬季休暇について考えてさらに憂鬱になった。





次の日は雨だった。秋らしい、細く流れるように降る雨。しばらくは降り続くだろう。





雨が止まない。降っては止み、止んでは降るせいで地面は常に湿り気を帯びている。そういえば気温も少し下がった。本格的に夏は終わったのかもしれない。





ようやく雨が止んだ。晴天が連日続き、からっとした秋晴れだった。長袖を着るか半袖を着るか迷う程度の中途半端な気候で、結局半袖の上にローブを羽織って外に出た。雨のせいか沢山木の葉が落ちている。
どこに座ろうかと迷って、一番最初に犬を発見した木の傍にした。地面が湿っていないことを確かめてから座り、教科書を開く。確か明日は上級者向けの魔法薬を作る日だ。失敗すると煮立ちながら膨張する、かなり面倒くさい代物だった。予習しておいたほうがいいだろう。

柔らかいものに背中を突かれて振り返ると犬がいた。思いのほか集中して読みふけっていたせいで、日が暮れていることに気がつかなかったらしい。いつから居たのかは知らないが、暑さを凌ぐ必要もないのにと驚いた。もう来ないだろうと思っていた。
ともかく夕食の時間だからと立ち上がると、枝の間に透けるようにして月が見えた。季節のせいだろう、昇る時間も少しずつ遅くなっている。まだ低い位置に浮かぶ、円になり損ねたような歪な形だ。
「・・・そうか、明日は満月なんですね」
独り言が風に吸い込まれるようにして流されていく。秋の風は強い。
犬が小さく鳴いた。





次の日は満月だった。雲ひとつ無い夜空をぽっかりとくりぬいたように浮かぶ満月だった。その日は夢を見た。いつか見た絵本のように、梯子を立てかけて月を取りに行く夢だった。なぜ月が欲しいと思ったのかも分からないままに長い長い梯子を登る。そうして僕は月を手に入れたけれど、当然ながら支えを失った梯子は倒れて、そうしてそこで目が覚めた。





様子がおかしい。
いつもなら僕が来ると立ち上がって居場所をずらす犬が、今日は立ちあがりもしなかった。僕が歩み寄ると尻尾を一度だけパタリと揺らして、そしてそのまま自分の毛に顔を埋める。熱中症になった犬がなりそうな状態だったが、今の季節でそれはないだろう。
そこまで考えて、ペットでもない犬を心配している自分が馬鹿らしくなった。くだらないことに意識を割くのは嫌いなのだ。そもそも、こうして今の状態に甘んじている方がおかしい。
言い聞かせ、無関心を装って座ろうとしたところで――ふと、違和感を感じた。
この犬、前足を庇っているように見えないだろうか?
「・・・・・!お前、怪我を・・・」
左前足の上腕部当たりにスッパリと入った、野生の動物に引っかかれたにしては大きすぎる切り傷。隠すように丸めていた身体を強引にどかせると、今更ながら血の臭いがした。
「マダム・ポンフリーのところに、」
行きましょう。と、最後まで告げることは出来なかった。急に立ち上がった犬が歯を剥きだして、搾り出すような声で唸る。危害を加えるつもりはありません、と犬を落ち着かせようとして、視線の高さを合わせる。「知られたくないのですか?」無意識に全く違う言葉が滑り出た。「知られたくない誰かがいるのですか」犬も驚いていたし、僕も驚いた。僕は、犬相手に何を言っているのだろう。
「・・・おいで」
自分の動揺を押し隠すように手招きし、ポケットからハンカチを取り出す。黒を基調とした布地で、恐らく血が目立たないだろうと思ったのもあるし、今はそれしか持っていなかった。躊躇いながらも近寄ってきた犬の前足を上部で簡単に止血し、丁寧に巻きつける。僕は兄のことを思い出していた。昔、幼い僕が花瓶を割ってしまったとき、兄は泣き喚く僕を慰めて、上に羽織っていたカーディガンに破片を全て包み、庭へと埋めに行った。兄はそのときに指を切ったのを隠していたらしい。兄は自分の傷をよく隠す。それも、自分のためではなく、だ。結局その怪我は後に母親にバレて、芋づる式に花瓶のことも発覚し、兄はヒステリーの被害に遭った。花瓶を割ったのは兄ということになった。
「・・・・・・・・・」
処置を終え、犬から少し離れる。犬はなぜかハンカチを凝視していた。巻きがきつかったのかと思ったがそうではないらしく、本を開こうとしていた僕を今度は凝視する。あまりの様子だったので僕ももう一度ハンカチを見て、ああ、と思った。
「ああそれは、僕も破片で怪我をして、それで兄上が・・・・・・・・」
兄上が。
「・・・・・・・・・・・・・・」
黙り込んだ僕に、犬は心底不思議そうな顔をして、その様子の伺い方があまりに人間臭く、僕は笑ってしまった。
「大したことじゃあないんです」
サラサラと流れるような風が吹く。木々を揺らし、落ち葉を移動させ、出来たばかりのハンカチの結び目を震わせる。

「・・・こんな風に、返せていないものばかりなんだ」

兄はよく僕を庇った。
気がついたのはいつだっただろう。客観的に見なくとも分かるくらい歪な家庭。愛情が向けられるのは血筋と才能へのみで、存在を祝福されることはない。政略結婚であった両親の間にあったものが僕には分からなかったし、おそらく僕との間にも何もなかったのだろう。世間は子を愛さない親はいないという。子を産むというのは大変な行為で、それを経た後に出来た子に愛情を抱かないはずがないだろうと。だけど、その愛情が最初から違った方向を向いていたなら。生まれる前から生まれてくるだろう子を思い描き、その想像を愛していたのなら、どうだ。現実との違いを前に、崩れ去らないものがあるのだろうか。
その点、兄は愛されていたのだろうと思う。根本的な部分からそりが合わなかったせいでほぼ毎日のように罵り合っていたが、兄の才はそれこそ一族の中でもずば抜けたものであったから、期待を加重され続けていたはずだ。それが幸せだとは、どう頑張っても言えないだろうが。

「兄上が嫌いなんです」

無言の食卓。交わされない言葉。時折爆発する母。始終無関心の父。面倒臭そうな兄。立ち回りが上手な従姉妹たち。沢山の他人である大人。何もない。本当に何もなかった。
宗家と分家が明確な差をつけながらも立場を守ろうと攻撃しあう、今にも崩れそうなバランスで成り立つ、空気だけを内包したような空っぽの建物。
そんな中、兄だけは何も失わなかった。
本来持って生まれた何かをずっとずっと守り続けて、奪われないまま、その上僕までもをその波から守ろうとする。
頼んでもいない救いを与えて、僕の背中に貸しを積荷していく。
どれだけ兄の為にと動こうと、今更庇い返そうと、降りる気配のない重み。同じだけ代わりに罪を背負って、母のヒステリーを受け止めて生きているはずなのに、ただもどかしさだけが降り積もっていく。その恩を前に僕の権利はことごとく失われていき、僕は何も出来なくなる。

「僕はもうこんな借りは消してしまいたいのに」

無意識下で兄を盾にと利用していた僕は、これから何をやっても空転するばかりで、あの頃に戻れない。
僕がいつまでも縛られているのは兄のせいなのだ。
だから。

「・・・どうしてお前が悲しそうな顔をするんです」

犬は垂れさがる耳を自力で持ち上げようとしていた。前足を器用に動かして変な姿勢のままにピョコピョコと跳ねる。可笑しくて笑ったのに、どうしてか中途半端になってしまった。右手を伸ばす。「あんまり暴れると傷に障りますよ」頭を撫でると犬は驚いたように見えた。黒い毛は少しゴワゴワしていたが、剛毛というよりは手入れが粗末なだけだろう。元は艶やかなのだと分かるくらい柔らかい毛も混じっている。そういえばこの犬に触れたのは今日が初めてだったのだなぁとぼんやり考えた。





雪が降った。冬が来るらしく、気温も急に低迷しだしている。犬は以前ほど頻繁に現れなかった。僕もわざわざ外に出る用事もなかったので、毎日の殆どを寮と図書館で過ごすようになった。





天文学のレポートの為に天文台へ登った。白い息が漏れでては空気に混じるように霧散する。今日は一際寒い。
早く終わらせようと、羊皮紙を広げ星の位置を書き込む。おおいぬ座が若干歪んだ。直そうと悪戦苦闘していると、シリウスが滲んで一回り大きくなってしまった。結局、用紙を一枚無駄にした。





冬休みになった。兄は必要最低限であり、母がヒステリーを起こせない時・・・クリスマスパーティのときだけ帰ってきた。始終貼り付けたような無表情を浮かべ、他の大人たちをあしらう。何もかもそつなくこなす兄は昔からそういった処世術も備わっていて、大人たちと関わるときはいつもこんな顔をしていた。仮面。そう、全部は仮面なのだ。僕が幼い頃に抱いた憧憬も、向けていたのはその完璧な仮面へだった。
気づいたのは兄がグリフィンドールに入ったとき。周りの低俗な連中と絡んで、凛とした威厳も高貴さもない笑い声を上げていた、それを見た。
ああ、と思った。
すべては嘘で、あれがいつも彼の奥底で殺されていた本物の兄の姿なのだ、と。

憧憬は嫌悪に反転した。

結局、一言も言葉を交わすことなく兄はホグワーツへ帰った。





休暇ももう直ぐ終わる。生徒達が帰ってきて少し騒がしくなった学校もこの時間帯は静かだ。 滲むように朝日が昇る。照り返しの強い窓の外を見れば、真っ白の中にぽつんと佇む黒色が朝日を見上げていた。一人きりで、微動だにせずに真っ白な光が空を覆うのを待っていた。
寝起きの目に眩しさが染みて、僕はカーテンを閉めた。





雪が溶けた。グリフィンドールの連中が作っていた雪の塊が歪な形になって少しだけ残っていた。明日には無くなるだろう。





久々に訪れた慣れ親しんだ木の下、犬はやはりそこにいて、僕の姿を見て尻尾を振った。と言っても姿は気怠げで、僕の訪問を喜んでいる様子は欠片もない。つまりは無意識に尻尾を振っているのだろう。考えると少し気分が高揚したが、僕には尻尾はないので勿論そんなものは表に出す前に押し殺した。
「怪我はもう治ったみたいですね」
声を掛けると耳をピンと立てる。
何気なく手を伸ばす。頭を撫でようとすると、犬はするりと避けて木陰へと走っていった。何か嫌がられるようなことをしただろうかと、手を引っ込めることも忘れて呆然とする。だが、そんな僕の衝撃は意に介さず、犬は思いのほか早く引き返してきた。
「・・・?それは・・・」
犬の口に、いつかの黒いハンカチが銜えられている。それを確認して、僕はようやく止められた時を動かされたかのように手を引っ込めた。自然と眉間に皺が寄るのが分かる。「返してくれなくていいですよ、それ。いりませんから」意図せず突っぱねるような言い方になったのを、犬は無視するかのように顔を押し付け、強引に手の中にねじ込んできた。こちらの言うことを聞く気はないらしい。仕方が無いので僕が渋々ながら受け取ると、犬は満足そうに吼える。この犬は、この布切れの重みを知らないのだろうなと思った。
「・・・あれ、」
さぞかし汚れているだろうと広げたハンカチは洗濯後のようにまっさらで、血の跡どころか土の汚れも付いていない。獣臭い匂いは僅かに移っていたが、それだけだった。頭に疑問を渦巻かせつつ、四角く折り畳んでローブに仕舞う。通りがかった生徒にでも浄化呪文をしてもらったのだろうか。もしそうなら、本当に賢くて気高く、そして勇気のある犬だ。
「お前が人間だったら、きっとグリフィンドールに入るんでしょうね」
なんとはなしに呟く。さながら忠犬のように座り込んでいた犬は急に立ち上がった。僕に歩み寄り、やはり意に反して揺れる尻尾を押さえようとしている。
「だから、なぜお前が喜ぶんですか」
今度は手を避けない。犬は自分の頭を撫でる僕の手を見つめて目を細めていた。





試験の結果はいつも通りだった。兄は勉強もしていないくせに、あのポッターと並んで一位をとり、僕は一年前の兄の成績に遠く及ばない例年通りの成績だった。母はまた僕に冷めた視線を向けるのだろう。いや、視線すら向けないのかもしれない。どちらにせよ、楽しい夏休みなどは到底想像できなかった。





学校が終わった。
兄は愚かしくもホグワーツ特急の中で煩く騒ぎまわり、僕はその度に眉間に力を篭めながらも無心に本を読んで時を過ごした。窓の外は明るすぎるくらいに太陽が照っている。夏が訪れている。
向かう先は同じであるのに、僕と兄は示し合わせたように違う時間に車を手配し、家へと帰った。





長い夏休みが終わった。





5年生になった。
目に入る何もかもが不快だった。持ってきた新品の教科書も、風も無いのに揺らめく湖の水面も、うだるような暑さの中に見える陽炎も、グリフィンドールの席で周りと談笑しているだろう兄も、視界の端にいる黒い影も。
気持ち悪い。
崩れ落ちる足場に何秒も何分も何時間も乗ったままでいるような、不安定な世界。

「・・・来ないでください」

兄が家を捨てた。
僕が何より大切にしていた小さく歪な世界が崩壊してしまった。

犬は怯えたように一度歩みを止めてから、今更馬鹿なフリをして、犬だから日本語が分からないんだとでも言いたげに距離をつめてくる。いつもは驚くほど賢く振舞う癖にと、何もかも分かっているかのような犬が憎らしくて仕方がない。
「来るなと言っているでしょう」
「・・・・・・・・、」
「嫌いなんですよ!兄上も、お前も!」
そう、ずっとずっと兄が嫌いだった。ブラック家に相応しくない振る舞いも、才能を潰すような生き方も、僕より沢山のものを持っているにも関わらずそれを活用しない兄が、兄上が、

「兄上が・・・!!」


兄が好きだった。


ブラック家の当主となるべく生まれてきたような才。中身に相応しい、通りすがれば誰もが振り返るような容姿。神は二物どころか思いつく限りのものを兄に与えたに違いないと、皆がそう思った。
箒は与えられただけですぐさま乗りこなした。呪文は本を一通り見るだけで使えるようになった。すべてを余すことなく吸収する兄に出来ない呪文などなかったのだ。その上、呪文の効果もまた目を見張るような力強さで、周りの大人ですら舌を巻いた。
兄は僕が目指す全てだった。

だがその兄は、何一つ満たされていないようだった。

『あんのクソババァ!俺は権力誇示の道具じゃねーよ!!』

兄は両親が嫌いだった。毎日のようにブラックに相応しくあれと唱えられ続け、英才教育を施そうとした母への反発と、一切の興味関心を示さず母のヒステリーを放置する父への不満があったのだと思う。僕は彼等の捧げる理想理念に共感していたからそれほどではなかったものの、それでも確かに息苦しく感じる日々は多かった。

『・・・どこで育て方を間違えたのかしら。』

僕もまた満たされてはいなかった。
優秀すぎる兄と比べられ、失望の目を向けられるのが日常だ。母は僕に興味すら抱いていなかった。僕は失敗作であり出来損ないだったのだ。
どんなに練習してやっとのことで呪文を使えるようになっても、両親や親戚が僕を見ることは一度もなかった。
たったの一度も。

『なぁレギュラス』

でも、兄だけは違った。

『大人になったらこんな家出て行ってやろうぜ』
『あんなくだらない大人のいないところへ行くんだ』

兄だけが僕を見てくれた。
僕を守っては代わりに被害を受けて、母に怒られては彼等との溝を深める。兄はいつも戦っていた。理不尽から、閉じた環境から、自分と――そして僕を。なんの利益もないのに幼く無力な僕を庇い、両親と僕の間の壁となった兄。その僕は、無関心という壁に包まれて安全地帯に潜み、兄が負傷していく様子をただ眺めていた。

そのうち僕は兄を盾にすることを覚えた。

というよりは、すでに盾にしていたことに気づいた、と言うべきか。僕の立ち位置は兄が居てこそあるもので、兄がいるからこそ周囲に溶け込めず、でもだからこそ安全で平穏だった。思えば、ずっと僕は無意識にでも兄を利用していた。仕方ないと言い訳して殻に篭り、衝突する家族を傍観し、兄を守ろうとすらしなかった。時には都合のいい位置にいた兄の影に身を潜めるようなこともした。
僕は兄に守られていたのだ。
会話をすることがなくなって、通り過ぎざまに冷たい視線を向け合うだけの関係になっても、意見を違え幼い頃のような関係を築けなくなっても。
兄は僕を守り続けていたし、僕はもはや手遅れであるくらいに兄を傷つけていた。
そうしていつしか僕の背には、僕を軽く押し潰せるほどの借りが積まれていた。


「僕は、どうしたらいいんです?今更何をしても、どんなに兄上の為にと行動しても、無くならないんですよ。背負わされたものがどんどん増えていく気すらして、言いたいことも怒りたいこともあるのに全部出来ない。だって僕はその権利がない。これだけされておいて、それで僕は、・・・でも、でも僕はどうしたら」
「・・・・・・・・・・」
「守って欲しかったわけじゃなかった。代わりに傷ついて欲しかったわけじゃない!だけど!だけど、兄上はそれでも僕を守るんですよ!誰が頼んだって言うんです、誰が、誰がこんな重荷・・・!!」


――兄がグリフィンドールに入って、世界は反転した。
僕は兄を貶す為の道具になった。スリザリンに入った僕は急に甘やかされ持ち上げられ、存在を認められるようになった。逆に、兄はどんどんと端へと追いやられ、それでも恵まれすぎた才能に邪魔されて自由になることを許されなかった。
母の甲高い喚き声と親戚の怒鳴り声が響く屋敷の中、僕はやはり安全地帯にいた。
兄がいるあまりにも酷い場所を眺めながら、そんな立ち位置から僕を庇っていた兄をただ見ていた。


「埋められない・・・・・・・・・」


兄が家を、僕を捨てたのは当然だ。
味方が存在しないまま、自分を消耗させるだけの場所に居続け、それでも生きていた兄。
だというのに僕は、僕以上に沢山のものを持って僕以上に傷つけられた人を妬むばかりで、羨ましくて眩しくて、どう考えても僕より不幸なその人を、ただ傲慢に生きているようにしか思うことができない。

『どこで育て方を間違えたのかしら?』

180度矛先を変えた台詞が兄を削り取ろうと、僕は何も出来やしない。
埋められないのだ。
兄があの家で息苦しそうにしていたのを知ってる。
グリフィンドールの連中に囲まれて見せる、あの笑顔が本当のものなんだって知ってる。
だけど、家に、空間に、ぽっかりと空いた穴がどうしても埋まらない。
今更酷い場所を押し付けられたのにもかかわらず、僕の背中には兄への借りが加重され、肺は圧迫される一方。
それなのに、どんなに耐えても僕は、兄に救われた借りを消せない。
まるで生き地獄。


「兄上が・・・・・・・・・・・・・・・・好きだったのに。」

だけどもし、この生き地獄が兄の与えた罰ならば。
一緒に家を出ようと言った兄が僕を置いていったのは、それの償いを求めてのことだったなら。
僕はそれを受け入れなければならぬ。

顔を埋めた膝が湿っているのが分かる。
傍の気配は動かない。近寄りもせず遠ざかりもせず、ただ距離を保っている。
力の篭った腕が自分の意図以上に自身を締め付けて苦しい。歯を食いしばれば有り余った力が表面を削る音がした。
足元に掛かる黒い影は動かない。

犬はずっと、そこにいた。





気がついたら寮のベッドにいた。スネイプ先輩が傍の椅子に座っていて、僕が目覚めたことに気がつくと黙って紅茶を運んできた。どうやら僕はあのまま眠ってしまったらしい。先輩が運んできてくれたのかと訊ねると違うと言った。確かに先輩にはそのような腕力は無いだろう。先輩は少し機嫌が悪かったので、その判断を口にはしなかったが。
受け取った紅茶から立ち昇る湯気は暖かく、ひりつく目蓋に染みるようだった。
今更ながら腫れている目を隠し、俯く。先輩は何も言わなかった。こちらに背を向けて、神経質そうな手つきで魔法薬学の教科書を捲っていた。沢山書き込みされた真っ黒な教科書だった。

結局、そのあとどれだけ訊ねようと、僕を運んだ人物のことを先輩は教えてくれなかった。





秋はすっかり深まって、空は随分高くなった。犬は稀にしか現れなくなっていた。現れても以前のように寄ってくることはなく、遠くから様子を伺っては立ち去るだけなのだ。
それでも僕は毎日外へ出た。いつも変えていた居場所も固定して、同じ木の下に居座るようになった。
どんな日照りでも、雨の日でも一回は必ずそこに行った。
犬は一度も近寄ってこなかった。





雨が酷く憂鬱だ。
もう少し気温が下がれば霙になりそうな冷気が蔓延する軒下、僕はワイシャツの一番上で喉を圧迫していたボタンを外す。
クリスマス、普通の家庭が楽しく夜を飾っている頃、世界を平等にするための負の要素として作り出したかのようなパーティが、この家の中で行われている。静かに抜け出してきた僕は、ふと、いつもパーティの途中で僕を外へと連れ出した幼い頃の兄を思い出した。

・・・兄のいない冬休みが始まった。
パーティはそれは散々なもので、親戚達の八つ当たりの場のようなものだった。次期当主の失踪という取り繕い切れない失態のせいで語気を荒くする大人たちに、僕は立場上持ち上げられただけで、兄より劣っているこいつでいいのか、という言葉を腹の底に溜め込んでいる媚の売買現場に放り込まれた。
穴は大きかった。
今更兄がいた位置に立ち、その酷い環境を思ったとして何が生まれるわけでもない。ただ、僕と兄がもしも逆で、僕が先に生まれて兄が後に生まれたなら。僕が兄で兄が僕だったなら。僕は、兄を守っただろうか。

僕たちは成長して大人になって、割れた花瓶は直せるようになって、それでも壊したものを、取り戻せないものを抱えている。もし、と思う。もしも僕たちがマグルだったなら。魔法も使えず、割れたままの花瓶は埋められて、そうしてこんな雨の日に地表へと出てしまうのだろうか。それはおそらくこの家に刻まれてきた傷のように露出して、だけど結局その被害を被るのは僕じゃない。どちらにせよ僕は僕である限り兄を利用し続ける。意思の如何に関わらず、立ち位置がそれを決定付けているから。
兄は傷つけられる。
僕はそれを盾にする。
兄は傷を隠す。
僕は気づかないフリをする。
兄は。
僕は。
僕は。

・・・・・・ぴしゃ。

「・・・・・・!?お前は・・・・・・」
ふと見やった庭木の陰、黒い影が水溜りを踏みつけて音を立てた。ずぶ濡れでほっそりとした姿は、それでも僕にあの犬を連想させた。別人ならぬ別犬のようだったのに、なぜなのだろう。そもそもホグワーツに居たはずの犬がこのような場所にいるはずはなく、あの犬だと思ったことが先入観の仕業でしかない。
「・・・ずぶ濡れじゃないですか。こっちへおいで」
それでも僕は半ば確信していた。静かに歩み寄ってくる艶やかな黒色も、こちらを伺うような様子も、その賢さも。どれをとっても僕にはあの犬のようにしか思えなかった。
「風邪を引きますから、家にお入り」
犬は首を振る。
人間のようにNOを示して、寂しげに。
「入りたくないのですか?」
犬は動かない。普通の犬が当然するように水を弾き飛ばすこともなく、ただ佇んでいる。
仕方が無いのでタオルを持ってくるから待つようにと言い置いて、僕は家の中へと走った。クリーチャーを呼ぼうと思ったが、あまり大きな声を上げれば親戚連中が不信に思うだろう。躊躇って、結局自分の部屋まで行った。真っ白なタオルを引っつかむように持って飛び出す。この程度の運動で喉がひりついて、他人の物のような荒い息の音が鼓膜を揺らした。辿りついた玄関で息を整えることもせずドアを開ける。分厚い扉がゆっくりと開いて、家の明かりが外へ細く漏れ出していった。ドアを開け切る。雨の匂いが舞い込む。犬は、いなかった。





夢を見た。懲りず僕はまた月を取ろうとし、依然としてその理由も動機も知らないまま梯子を昇る。前回失敗した点を全く改良しないまま、同じように月へ、月へ、月へ。
大気圏を抜ける。
なんだかとても寒い。
次第に面倒になってきた。それに、近づくに連れて表面の凸凹が見える月よりも星空の方が綺麗で目を奪われる。
中でも一番輝く、あの星の名前はなんだったか。
あんな風になれるなら、僕もこのまま星になるのもいい。
このまま――。

その日、僕は梯子を降りなかった。何段目かも分からない足場に座って、ずっと遠くにある星を見ていた。





それっきり犬が僕の前に姿を現すことはなかった。本格的な寒さが訪れて庭が真っ白になっても、年が明けてそれが溶けてなくなっても、木々に若葉が芽生えだしても、そして夏が訪れても、おそらくは。
あの黒い姿を見ることはこの先にただの一度もない。
木漏れ日が美しいあの場所もきっと無人のままで、いや、もしかしたら他の誰かのものになるのかもしれないけれど、少なくともそこに僕はいない。それだけのこと。
そんな瑣末なことで、何かを失った気になるなんて馬鹿げている。
今更悲しむ心などあるものか。分かりきっていたことを改めて提示されただけなのだ。
僕は兄とは違う。もう月を取りにはいけない。
そもそもの立てかけ方を間違えていた梯子は倒れて、結局僕は落ちるのだろう。
別に構わない。困ることも、後悔も、何一つ浮かばない。ただ少し、あの星空が見られないのは残念だなぁとは思った。美しいあの星の名前も、僕はまだ知らないままだ。
目を閉じる。梯子はゆっくりと倒れて、宙に浮く感覚が身体を撫ぜていった。





僕は死喰い人になった。





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