鳶色の髪が街頭に照らされて蜂蜜みたいに輝いていた。長い睫毛に覆われた大きな目を何度も瞼で撫でながら、同じく優しい色合いの瞳を揺らめかせている。満月にはあと数日程足りない月が私たちを追いかけてきていた。リーマスは何度も振り返ってはそれを確認していて、数歩後ろを歩く私はその度に瞳の中の月を見ることになった。挙動不審ともとれる彼の行動は、幼さ故に同じ距離を保つ月を疑問に思うと言うよりは、酷く恐れを抱いているようだった。逃げても逃げても帰り道を追いかけてくる、引き離せない、家の場所を知られる、そういった類いの感覚に付きまとわれているのは明白である。彼はこの丸い天体が嫌いらしい。理由は知らなかった。私がオートミールを嫌うのと同じようなものだろうと思う。私はどうもあのドロリとした舌に張り付く食感が苦手なのである。リーマスの両親が時折ご馳走してくれる朝食に出現するときには笑顔が引きつるのだった。優しい彼の両親に付き返すのは幼心にも躊躇われて、だからリーマスにはよく代わりに食べてもらったものであった。縋るだけでは居心地が悪いものだからと、他の幼馴染とお弁当のおかずを交換しあうときのように、私はそんなリーマスの苦手なものを食べてやろうと何度か提案したのだが、その度にリーマスは子供らしくない緩やかな笑みを浮かべていた。彼は両親が好きであった。私が覚えている限りでは、彼は一度として出された料理を拒んだことはない。それは、好き嫌いがないというよりも愛情をまるまま受け入れるような、温かみに包まれたものに思えた。私も彼等のような親を持てたならば、親孝行を惜しまぬ子になれただろう。何度か、どうして彼等は私の両親ではないのだろうと真剣に考えたこともある。ただその度に、リーマスの両親は彼等でなくてはいけなかったことを思い知り、その家庭はそこだけで完成されたもののようだとも感じた。あまりにも完璧で、何かを裏に持たねばおかしいほどに。
滑るように夜闇を移動する月は、どんなクディッチの選手よりなめらかで安定した飛び方をしている。私はあの下に箒にのって黒い布を被った誰かがいて、その人がまんまるいボールを持っているのではないかと度々考えることがあった。その誰かは月の運送屋で、地球の裏側へと明かりを持っていくのである。この幼い妄想は、リーマスに告げようとするとたちまち淡い霧のようにぼやぼやとしたものになって、高揚感に押しつぶされて上手く言葉に出来ないことが多かった。そんな私をリーマスは見守るような複雑そうな、困り果てた時と同種の笑顔を傾けて見ていた。他のどんなくだらない妄想も馬鹿にすることなく考えてくれるリーマスは、このときだけはそれを否定するのだ。

今、振り返るリーマスに恐れの色はない。チラチラと月の在り処を確認するのは、どうやら癖になってしまっているらしかった。能面のような平らな表情から読み取れるのは、培われた彼の強さであろうとは思うものの、私は寂寥に襲われていた。リーマスはもともと激しい気性ではなく、笑い方も大人びた柔らかなものであったが、その裏にはいつも微量の悲しみが添加されていた。それが今は無い。
「上弦の月、だ」
「え?」
「三日月だね」
そういえば、上弦だの下弦だのという勉強は天文学の授業でもした覚えがない。マグル寄りの育ちである私からしてみれば常識であることが、ここではそうでないのだ。だが、下弦について説明をしようとする前にリーマスは呟いた。「あれは四日目の月だよ」どうして分かるのだ、とは訊けなかった。殆どの人間が曖昧にしか記憶していない衛星の動きを、彼はきちんと把握している。
「・・・・・・元気にしてた?」
「うん」
途絶える会話もそのままに、私たちは静かに歩いていた。人一人いない深夜の廊下だ。
ホグワーツに入学してすぐは、寮が違えども交流はあった。リーマスはグリフィンドールに、私はレイブンクローに入ったのだ。その頃は幼馴染というだけあって、合同授業のときにはペアを組んだし、廊下で出会えば立ち話もした。それが段々無くなっていったのはいつからだったろうか、恐らく彼が校内でも飛びぬけて名高い有名人のいるグループに入った頃合だろうと思う。偶数のそのグループでは当然ペアを作るのに困ることは無く、だから私も同寮の友人と組むようになった。ようするに自然消滅の形だったのである。
ともかくも、私たちの交流はほぼ途絶えていた。
それが何故こんな深夜に並んで歩くことになったのかというと、レポートの為にと登った天文台で寝こけていた私を、忘れ物を取りに来たリーマスが発見したからである。しかも、就寝時刻を過ぎている規則破りの時間帯に、だ。優等生である彼がなぜそのような時間に、という疑問は彼の手にある薄汚いレポート用紙で簡単に説明が付く。成績が危なっかしいことで有名なペティグリューの、しかも明日の朝一の授業で提出しなければならないレポートだ。友人思いの彼は、今頃他のレポートにも追われている彼の為に代わりに取りに来てやったのだろう。
偶然に救われた私は彼の案内で、人通りの少ない通路を利用しながら寮へと向かっている。先ほどの廊下を曲がらなかったことから推測するに、最後まで送り届けてくれるらしい。
荘厳な造りの柱の影は薄色で、蔓をあしらって丁寧に装飾された格子のそれも、先を歩く彼に時折掛かっては床へと落ちていった。

ふつりふつりと途絶えては繋がる追憶の中にいる。
彼の友人が彼の秘密に感づき始めた頃、私はすでに疑惑を確信へと近づけつつあった。当然彼の友人たちより長く知り合いであった私なのだから、それは自慢できるようなことではなくむしろ恥ずべき鈍感さであった。生粋の魔法族よりは狼人間についての恐怖感を刷り込まれていなかったから、それだけは幸いだったと言えよう。だが、それだけだ。
私はそこで立ち止まってしまったのだった。
彼が生涯を掛けて隠そうとしている秘密に気づいてしまった罪悪感と、私がずっと焦がれてきた暖かな家庭の前提にある大きな傷跡に対する絶望、広くなりつつあった距離感が埋まらない焦燥を抱えたままに、結局何もしないことを選んだのである。要するに一番安全な逃げだ。私は手抜かりなく完璧に演技してやった。欠片も思い至らない馬鹿のように振舞うことは、以前の自分そのままであったから、そう難しいことでもない。
そうして私が完全に逃げ切った頃、リーマスは救われたのだった。
その日の衝撃は覚えている。いつものように朝食を採りに大広間へ降りたとき、すっと隣を通り過ぎていったリーマスを目で追えば、彼に気が付いた彼の友人がぱっと微笑んで彼の名を呼んだ。そうすると、リーマスはどこにも哀愁を見受けられない、花が綻ぶような笑顔を浮かべたのである。私は驚きのあまり全てを忘れ去って、その瞬間、背の三倍はある扉の傍で動かなくなった足もそのままに真っ白な思考へと落ちていた。真っ白で、真っ黒で、自分の存在さえ無くなった盲目の世界へと。

「そんなに月が気になるの?」
はっと顔を上げたときにはモノクロの部屋は姿形を残さず消えて、そこはホグワーツの静かな回廊であった。記憶の中の自身と同化していたせいで、現実での足も止まっていたらしい。慌てて視線を向ければ、月明かりをふんだんに取り入れる見事な設計が気に入らないのか、普段より暗い色合いに染め抜かれた髪の下に顰められた顔が見えた。光を取り入れた瞳がこちらを射抜く。ぼくがつきをみると、つきもぼくをみる。かつてのリーマスは光の無い目で呟いた。彼はその後に、かみさまが自分を守るようにとも願わなかったし、間違っても月の保護を頼みはしなかった。リーマスはむしろ、月の配達員などは殺してやりたかったのだ。
「フィルチの見回りの時間ではないけど・・・・・・早く帰ったほうが良いよ」
「そう、だね・・・・・・」
「眠いの?あんなに寝てたのに」
微かにからかう響きを帯びた声色でリーマスが穏やかに笑んだ。湿気を含んだ夜の風がそれを撫でていって、さらさら、さらさらと糸のような髪が揺れる。中でも一際明るい色のそれが黄金色に輝いていた。
「・・・・・・月が綺麗ね」
嘆息と共に漏れ出た卑怯な告白は白々しい。睫の先にちらほらと点る光が佇むリーマスを抽象的な絵画のようにしている。夏目漱石のことなんかこれっぽっちも知らないリーマスは、「そうかな」と訝しげに問いただすのみだった。満月でもないのに、と人の目で満月を見たことのない彼は続けられなかったようだ。この私の言葉のチョイスには虫たちも閉口したらしく、ただただ無音な校内では、思いのほか穏やかな心音でさえも漏れ出しそうである。やがて私は歩を進めて、リーマスも何も言わずに身体の向きを変えて歩き出した。

懐古の糸口はそこら中に散らばっており、砂を拾い上げようとすると混ざる小石のように、抗いようもなく身を苛んでゆく。
リーマスは今度は振り返らなかった。誰が言い始めたわけでもなく鬼ごっこをする月が、今どこにいるかも確認しない。
私より僅かに低かった背はスラリと伸びて、私とは頭半分ほどの差異がある。私は、私の代わりにオートミールを食べてくれるリーマスの代わりに、その鬼ごっこを引き受けてやりたかった。リーマスと帰路につくときはいつも、互いの分かれ道の前で二人立ち止まり、そして私が先に帰宅への歩みを再開した。月に怯えるリーマスを救いたくて、囮になろうと走り回っては私に付いてきた月を見て満足するのだった。これで私は彼を助けてやれるのだ。思って、次の日も私は笑顔で別れを告げた。付かず離れずの競争を経て引き連れてきた月は我が家の上に浮かんでいた。これで月はリーマスを見失ったに違いないと思った。これで配達員は寄り道をやめて黄色いボールを西へと運んでゆくのだ、と。

リーマスは今、輪の中で追いかけっこをしている。逃げては追いつかれ、追いつかれては振り切って、永遠に一方向へとしかいけない場所で、ぐるぐるぐるぐる、逃げ続けている。いつか彼が立ち止まってもそれは同じで、何事も無かったかのように追い抜かしては戻ってくるものには抗えない。私は何より大切なことを失念していた。月の居場所はそれぞれにとって違う。だのに私は捕まえた気分になって、ああ、なんと愚かなことだろう。
「僕は月が嫌いなんだ。」
リーマスは三歩ほど先を歩いている。
「・・・・・・うん」
一定の空白の先にいる彼が、彼の嫌うもののようだと言ったならどうするだろう。歪んだ想像に身を委ねていれば腹の底のほうで疼くしこりも忘れられて、自分の思考からも逃げ出すことが出来る。
「心の底から嫌いで憎くて、だから満月は見たこともない」
「うん」
「でも、今は一人じゃないんだ。殆ど覚えてはいないけれど、たぶん、僕は一人で満月を見上げてはいない」
そうだね、と打ちかけた相槌が掠れて呼気に紛れる。うっかり足音を消すのを忘れて、一回だけ大きく響いた。コツン。
「私、オートミール食べれるようになった。好きじゃないけど、出されたら一人で全部食べれる」
「うん」
「今日の月、綺麗。たぶん今日が満月でもそう言っただろうけど、」
「うん」
「・・・・・・上弦の月ってさ、受け皿みたいな月のことなの。だからそういう三日月の日は雨が降らないんだって。本当かなあ」
「どうだろうね。昨日は雨じゃなかったけど、その前はどうだったかな」
手馴れているのか、リーマスの足音は殆ど無かった。悪戯好きな彼の友人たちの影響だろう。そう、彼には本当に良い友人ができた。月を運び去ろうとした馬鹿じゃなくて、一緒に月を眺めてくれるような優しい人が。

螺旋階段を上りきった先はもう談話室だ。廊下よりも注意深く足音を殺しながらリーマスの背を追った。リーマスは五段ほど残した場所で立ち止まって、その先を行く私を見送った。登りきったそこで振り返ると、リーマスは幼い子を見守るような表情をしている。ぐらりと視界が傾いだのが錯覚だったのか本当に足を踏み外したのか判然としなかったが、私は真っ直ぐに立っているような気が少しもしなかった。
「君は」
リーマスの色の薄い唇が歪んでいる。
「相変わらず残酷なことをする。僕はきっと、三日月の度に天気を確認するようになるだろう。だって、僕はいつだって数えているんだから」
何をとは言わずに、責める様子も見せなく、嫌悪感の一つも見せない様子が妙にリアルであった。リーマスがこちらを向いたまま階段を一段下る。自然と見下ろす形になったせいで目元がよく見えず、闇に白く浮き上がる肌は病的だった。
「僕はいつも、僕を一人置いて先に帰る君が嫌いだった。僕が一言両親に言えば出なくなるオートミールを、恩を着せるように代わりに食べてやるのが好きだった。生まれてくるべきではなかったという自覚を遠ざける為に必死で、だから必要とされているあの瞬間が僕には救いだったんだ。君には、きっと分からないだろうけれど」
今更になって虫は鳴き始め、鈴のような、はたまた風鈴のような音色が重なり合ったりソロ演奏したりしながら静けさを満喫している。おそらくまっさらな雪に足跡をつけるような快感だったであろう。結局、二人の帰途の分岐点から先に立ち去ったのはリーマスの方だった。じゃあね、と一言言い置いて滑るように階段を下りていった。ふと急に、子供のように喚き散らしたいような怒鳴りつけてやりたいような思いに駆られ、私は呼吸に即さず変に息を吸い込んだ。私はその背に声を大にして叫んでやりたかった。衝動のまま、理性など弾き飛ばして、眠りについている学校中の者たち全てが目覚めざるを得ないような声で、私も同じなのだと言ってやりたかった。私も必要とされたかっただけなのだ。ただそれはリーマスにじゃあなかった。両親に愛されて、同じように愛し返せて、その料理を何一つ拒否することなく食べられるくらいになってみたかった。必要としていたんじゃない、私は、リーマスになりたかった。嫌いだったオートミールが食べられるようになったのは、食べ続けていたからだ。好きな料理を取って食べれるこのホグワーツで、ただあの暖かい家庭を思い出すためだけに嫌いな味を味わい続けただけだったのだ。リーマスが「リーマスを必要とする私」を必要としていたように、私が「リーマスに必要とされる私」を欲しがっていたなら、すべてに狂いはなかった。だが現実はそうではない。私が憐れなリーマスの真実を知っても望みを変えられなかった時点で、お互いの必要性に依存しすぎていた関係は破綻している。

壁の位置も分からない真っ白な部屋の中、恋をする前に盲目であった私は音もなく、声もなく、涙もなく泣いていた。ぼくがつきをみると、つきもぼくをみる。キリキリと音を立てて歯車が回るようだった。また一晩、かの日へと時は進んでいる。彼はまだ輪の中にいるのだろうが、もう一人で満月を眺めることはない。それだけの救いが逆に残酷なことのように思える。神は彼がぎりぎり生きられるだけの救いを加減しながら与え、その反対側で月を守っているはずだ。神が捧げる平等の元に神は存在しえない。
空気を読まない扉が怜悧な声で問うている。「人狼がなくのはなぜですか?」夜中に締め出されれば入れる可能性がないことを考慮してだろう、驚くほど簡単な問題だった。階段に背を向け扉へと向き直れば質問はもう一度繰り返されて、いつもは謡うようであるそれはどことなく悲しい響きのものであった。
「三日月の夜に雨が降らなかったから、じゃないかしら」
空は僅かに明るんで星々を溶かし込もうとしている。分岐路にはもう誰もいない。少なくとも、彼と私の鬼ごっこはもう終わったのだ。





(The Moon//110815)


The Moon
I see the moon,
And the moon sees me;
God bless the moon,
And God bless me.
  ――Mother Goose

inserted by FC2 system