右端の向日葵だけが枯れていた。
「レギュラス」
小さな手が握った杖から水は溢れ出て、いっぱいに含んだ光を乱反射させながら宙を彷徨い、一定量に達するとバラバラと砕けて落ちていく。もう、それが何度繰り返されたことだろう。
ぱらぱらと地面を穿つ音が断続的に繰り返される。おれは、無理矢理習わされているヴァイオリンの練習曲よりもそれを好きだと思った。だいたい、ヴァイオリンなんぞは練習せずとも大抵の曲が弾けるのだ。以前おれに楽器の指導をしていた者は、おれが楽譜を見ただけで弾いた曲を聴いて泣きながら帰っていった。おれがそれを指差して笑うと、レギュラスはなぜかぼんやりとしていて、どうしたのかと訊くと弱々しく笑ったのを、なぜだか妙に覚えている。そういうレギュラスの笑みがおれに見せるためのものだということに、おれはいつも気付かないふりをしている。
今日は使用人がぼやくくらいの真夏日で、ぎらぎらと照る太陽がうるさい。外に出て数分と経っていないのにおれの腕を汗が何度も伝い降りていった。
「なあってば。レギュラス」
「ああ、兄上。なにか用ですか?」
「いや、そうじゃなくて。・・・それ、もう充分なんじゃねーの」
「えっ?・・・・・・あ!」
地面は靴が汚れるほどにどろどろになっている。無心に水を撒いていたらしく、レギュラスははっとしたように宙の水を消した。地面を乾かそうとして慌てた様子で杖を振る。驚きと焦りが災いしたらしく、力みすぎた呪文は地面をカラカラにして、水を撒く前まで逆戻りしてしまったけれど。
「おまえはばかだなあ」
「・・・すみません」
レギュラスが溜息を付きながらもう一度水を出す。水は少し危うげにたわみながらも広がって、向日葵が群集しているそこ全体に水滴を散らせた。きらきら、光が砕ける。
「枯れたやつにも遣ってるんだな」
右端の茶色いそれにまできちんと水を遣っていたから、おれはそれについて呟いただけだったのだが、レギュラスはきゅうと唇を引き結んだ。おれは枯らしたことを気にしているのかと思って、「枯れちまったものはしょうがないだろ、」もう少し言葉を選べないのかと自分でも呆れるほどの直接的な慰めをする。
「あれはお前のせいじゃないさ。あそこは丁度家の影に隠れて日が当たらないんだ」
「ちがいます。べつに、落ち込んでなんかいません」
「・・・だいたい、これの世話だってなんでおまえがやるんだ?庭師にまかせればいいのに」
「いいんです!」
急に強い調子で遮るので、おれはびっくりしてしまったのだが、レギュラスはそれに気が付くと少し申し訳なさそうにしてまた謝った。おれはいつもそのすぐに謝るのをどうにかしろとい言っているけれど、レギュラスのそれはもう癖になっているらしく、その叱咤が意味を成したことはない。嗜めるときに呆れた顔をするとレギュラスは唇を噛み締めて俯くので、最近ではもう指摘することすらしていなかった。レギュラスは「違うんです」と呟いて向日葵に向き直る。
「かれたからって水がいらないとはおもいません」
おれはその意味がよく分からなかった。だってもう死んでるんだぞ、と言いかけた口を無理矢理閉ざすくらいには、おれもオトナだったということらしいが。
「すきで日かげに生まれたわけじゃないのに、水までもらえないのはかわいそうだから」
ふうん、と投げ遣りな自分の声のすぐ後のことだった。
母親の甲高い悲鳴が屋敷から漏れ聞こえて、その後に使用人の悲鳴と重なる。防音がきちんと成されているこの屋敷も、窓を開けているためにその機能を若干失っているのだ。続いてガシャンと何かが割れるような音が響き、母親がヒステリックに言葉にならない叫びを叩きつけているのがこの場所からでさえ把握できた。おれはその様がありありと思い浮かべられるのが可笑しいような虚しいような半々の心地がした。
叫びが聞こえた時点でぎょっとした顔をし振り返ったレギュラスは、すぐにでも屋敷へと走り出しそうに見えたが、俺がにやにやと笑っていることに気が付いて足を止めた。いつもの経験からことの真相を割り出すくらいには、レギュラスも賢い。
「知ってるか?あの叫び方、ビブラートって言うんだぜ。音楽のババァが言ってた」
「・・・兄上、また何かしたんですね」
「べつに。ただ、ババァが良く飲む茶葉にちょっとイタズラをしただけさ」
顔が思わず綻ぶのを抑えられない。レギュラスは眉を寄せて、なんと言うべきかを迷っている。
「いったいなにをしたんですか?」
「知りたいか?」
「しりたい」
レギュラスは素直に答えたので、おれはもったいぶって咳払いをし、叔父がよくする威張りくさった口調の真似をした。
「実はな、魔法をかけたんだ。」
レギュラスは呆気に取られた顔をして、それから今度は笑ってはいけないのに笑っている自分を諌めようとするような、不恰好な表情になった。
「どんなマホウを?」
「知りたいか?」
「・・・しりたい」
「それは秘密だ」
「どうして?」
「だってお前は教えたら反対呪文を唱えに行くんだろ?」
ぐっとレギュラスが息を詰まらせて、図星だったというのをあからさまに伝えてくる。おれはそれを予想していたものの、なんだか急に何もかもがつまらなくなってしまった。レギュラスはどうしてあいつらなんかを大事にするんだろう。レギュラスは、こういうのもなんだが、決して愛されているわけじゃあなかった。俺も同じだが、あの人たちは子どもに愛情を向けるような人種じゃあないし、レギュラスだって毎日傷つけられているだけなのだ。
「お前はあいつらが好きだからな」
今度はレギュラスの方がみるみるしかめっ面になった。
「兄上はいつもそうやって」
「・・・なんだよ」
「そうやって、・・・・・・・・・いけないことみたいに・・・・・」
おれはそういうレギュラスの「いい子」な部分がなんだかとても嫌だった。けれど、レギュラスはそれ以上は言わず、悲鳴が止んでいることを確認してからまた水撒きを始めた。じりじりと焼きつく太陽の熱を唐突に思い出して、頬を伝った汗をシャツの袖で乱暴に拭う。レギュラスはこちらを見ない。そうすると、なぜかレギュラスは二度と振り返ってくれないような気がして、妙な焦燥に駆られて俺はつい不機嫌になっていたことを忘れてしまう。
「あのさあ、レギュラス」
「なんですか」
「本当は、昼間に水をやるのはあんまり・・・その、」
「・・・・・・・よく、ないんですか?」
目を見開いて、レギュラスがぱっと振り向く。ああ、こちらを見た。そう安心すると同時に、おれは後悔してしまって、反射的に「いいや、そんなことはない」と首を振る。レギュラスはほっとしたようにまた前を向いて杖を掲げた。おれはどうしても、先ほどの驚きに満ちた、絶望にも近い表情が目に焼きついていて。レギュラスと話していると、目を閉じてしまいたくなるときがある。

レギュラスがどこからだか貰ってきて、珍しくはしゃぎながら向日葵の種を蒔いた。几帳面に毎日毎日水を遣って、沢山の芽が出た。あるときおれが間引きをしないのかと訊ねるとレギュラスは首を傾げた。「弱い奴は間引いて、土の栄養を強いのにあげなきゃいけないんだぞ」レギュラスはやはりあの消沈したような、抜け落ちたような様子で俯いた。「絶対にしなければいけないんですか?」その日は風があって、ゆらゆらと向日葵は揺れていた。そのどれもが通常より低い背で、とてもではないが良く育っているようには見えない。けれどおれは、何を言ってもレギュラスは犠牲というものを酷く拒んで、結局皆育てようとすることを知っていた。そう、周りの大人たちは知らなくてもおれは知っている。レギュラスは優しいのだった。だからおれはそのときにも口を噤んだ。おれはおれがなりたくないオトナに少しずつ近づいているということに、ずっと気付かないふりをして目を伏せている。





(根腐れ//120122)

ブラック家は入学前から魔法を使わせていそうだという設定で。恐らく魔法を使わせても文句を言われないか、使ってもばれないような呪文を敷地内に掛けてる、もしくは「匂い」の欠点を知ってるのだろうと思うので。

太陽に照らされながら水を撒くレギュラスがすきで、昼間に水をやるのはあまりよくないということを言えないシリウスが書きたかった
レギュラスのシリウスに対する憧憬とは違って、シリウスはレギュラスを理解できないけれど守りたくて、でもそれが無自覚だから、結構レギュラスを傷つけているのではないかなあ

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