レギュラス・ブラックはのことをそれなりに高く評価していた。というのも、彼女は純血であったし、レイブンクローに所属するだけあって成績は優秀であった。また、それを鼻にかけることのない様子や、権力や家柄に媚びず大体において平等に丁寧に接すること、気遣いができ話上手であること等々。他寮生で学年も一つ違い、数回しか会話をしたことのないレギュラスであるが、その少ない中に聡明さが見られるくらいには優れた人間であった。
このような彼女であったが、唯一つ、気に食わない点がある―――これがまさに理解不能というべきか、彼女は兄であるシリウス・ブラックと友人同士なのだった。
"どうして粗雑な兄と彼女が?"そうレギュラスが思うのも当然のことで、シリウスには女遊びが激しいというレッテルの下に女嫌いという一面も持っていた。母親への憎しみからの歪みである。そんな兄が唯一普通に話すのがあのリリー・エヴァンズとその人のみであることを考えると、当然「そういった」勘繰りが成されるもので、レギュラスも概ねその通りなのであろうとは思っていたが、なればは兄の一体どの辺りに惹かれているのかと、やはり首を傾げるのだった。
レギュラスは兄と仲違いしている。彼が兄を尊敬していたのは昔のことで、彼が家を出た今となってはただブラック家の汚点と恥じ入る程だった。彼と兄が互いに想いあっていた頃の記憶は既に形骸と化し、その重みを失って転がっている。
そのような複雑な背後関係もあり、レギュラスはを評価しながらも、いざ交流の機会を持っても若干の距離を置く、といった現状に甘んじているのである。
だがそう遠ざかるわりには、彼女のことを不意に思い出してしまうこともあった。薬草学で植えたキーキースナップの様子を見に温室へ行ったとき、偶々彼女が居て声を掛けてきたときのことを妙に鮮明に覚えている。堆肥の凝り固まっていたのをほぐし、隣の植木の葉のせいで影になっているのを直していると、「こんにちは、ミスター・ブラック」と涼やかな声が後ろから掛けられた。レギュラスは彼女が居ることを既に認知していたので、それほど驚かなかったものの、こんにちはと返す言葉が一拍遅れてしまった。
「それはキーキースナップかしら?種を植えたばかりなのね」
「ええ。来週にはもう芽が出るはずです」
「そう」
レギュラスはそれで会話が終わったものと思い、鉢の端に生えていた雑草に手を伸ばしたのだが、はそれをやんわりと遮った。
「その草は周りの生物の成長を促すの。ただし、花を付けたら逆に栄養を吸い出すから、蕾が出来たら抜かなければいけないけれどね」
レギュラスは目的を失った右手をしばらく滞空させ、植木鉢の縁についた土を払うことに使ってから引っ込めた。「でもなんていう名前の草かは忘れたわ」とはしばらく頭を悩ませていたが、結局思い出せないらしく諦めて溜息を付いていた。レギュラスは初めて見る彼女の失態に軽く放心しているばかりであったが。
結局そのときはそれでとは別れたが、温室では不思議と彼女によく会った。会うといっても姿を見るか二言三言挨拶を交わすか程度が殆どであったが、レギュラスはそもそも多弁ではないため、彼女と良く話しているような印象を持つようになっていったのだった。



晩秋の頃、レギュラスの元に母からの手紙が届いた。内容は主に死喰い人になったことへの賛辞と、冬季休暇にはあのお方の元に馳せ参じろとのことだった。レギュラスはその手紙をもう一度丁寧に畳み直し、封筒へ収めてからポケットに入れた。次の授業は天文学である。先の呪文学の授業が終わってから寮に戻り教科書を・・・というのでは大きなロスになるため、レギュラスは天文学に必要な教科書を既に持ってきていたのだが、そのために腕に掛かる負荷は大きい。彼は何度か持ち直しながら日の射す廊下を足早に進んで行った。
およそ廊下の中間というところでレギュラスは足を止めた。前から近づいてくる集団に目を留めたからだ。
それはジェームズ・ポッターを筆頭とし、悪戯仕掛け人なるふざけた名前を掲げる―――とレギュラスは思っている―――例の有名人集団と、もう一人、だった。
彼女はどうも、シリウスと何か真剣な話をしているようである。だがその様子はいつものあっさりした友人同士らしいものでなく、憤るシリウスをがどうにか宥めようとしているように見える。
レギュラスが彼らに気付いたと同時にジェームズもレギュラスに気付いたらしく、ついでリーマス・ルーピン、ピーター・ペティグリュー、、シリウスと順にレギュラスに気が付いた。レギュラスはそれをスローモーションのように見た。シリウスがこちらを向き、その眼に留めた瞬間に滲んだ怒気。レギュラスは直感的に理解していた。だがそれでも、無意識にポケットを押さえながら立ち尽くすばかりであった。後悔するには遅く、シリウスはずんずんと歩み寄って来ている。あの母親のしそうなことで、つまりはレギュラスだけでなく、レギュラスが死喰い人になったというのを暗に伝えるような手紙をシリウスにも書き、シリウスを嘲ったのだろう。
だが、後悔と同時にレギュラスはふつふつと腹が煮えたぎるようにも感じていた。僕が死喰い人になったからって、兄上に一体なんの関係があるというんだ?厭わしく思っているのだろうが、だからなんだという。あんたは家を捨てたじゃないか!
怒りは次第にレギュラスを埋め尽くし、シリウスが目の前に辿り着くと顔を忌々しげに歪めるのだった。
「あいつらの仲間になったというのは本当か・・・レギュラス」
対してシリウスも、怒気を押し隠したような声である。
「・・・ええ、そうですが?」
トーンの低い声は空気を圧していたが、レギュラスは短くそっけない肯定をその答えとした。シリウスの顔にカッと朱が差し、彼はレギュラスの襟首を掴んだとき、レギュラスの眼はひやりとしていて温度を失くしていた。
「貴方は家を捨てたんですから、当然そうなることは分かっていたでしょう?」
音が立つほどシリウスの右手には力が篭り、レギュラスは頭の片隅で、ああ殴られる、と数瞬後のことを考えた。シリウスが弟に暴力を振るうほどの喧嘩はそれこそ子供の頃以来である。レギュラスはあろうことかそれらを少し懐かしいと思っていた。拳が振るわれる―――そう思われたとき、レギュラスは眼を閉じた。来る衝撃に耐えるための反射である。ところが、その衝撃はいつまで経っても訪れることはなかった。代わりに、耳に聞き慣れた(実際に聞いた数は多くなく、殆どが脳内での録音を再生したようなものであったが)声が届いたのだった。
「シリウス、・・・・・・・それ以上はやめなさい」
レギュラスは薄っすらと眼を開けた。そして、拳を振りかぶるシリウスの背中に杖を突きつけているの姿を認めた。それは驚くべき光景であった。穏やかで、いかなる場合にも魔法による実力行使に移らないとされた「あの」が、友人であるシリウスに杖を向けている?
これに驚いたのはレギュラスだけでなく、ジェームズやピーターも同じであったが、リーマスは相変わらず落ち着いた様子であり、又シリウスは驚きよりも怒りが勝っている状態のようである。
「ミスター・ポッター、杖を降ろしてくれるかしら」
は依然として静かな声で言った。ジェームズは驚きから立ち直って直ぐに臨戦態勢に入ったらしく、鋭くを睨みつけ杖を突きつけている。
「確かにシリウスは平静ではないけれど、君が弟クンを庇う理由はないだろう?弟クンはよりによって『あの』グループに正式入りしたということじゃないか。それを責めることは正しいと思うね。だから庇う理由の如何によっては僕は君への見解を改める」
すうとの眼は細められ、睫の縁取りにその光が隠される。レギュラスはその時ようやく気が付いた。は、表情にこそ出していないが、何かに憤っている・・・。
「私だって、『例のグループ』について良い印象を持っているわけではないわ。それに関しては貴方達と同意見よ。それは、勘違いしないで。けれど・・・今のシリウスはあまりに軽薄だわ」
「軽薄?俺が?どこが間違っているっていうんだ!」
シリウスが振り上げた拳を下ろさぬまま吼えた。が、のどこまでも冷ややかな声で対応し、それはかえってシリウスの怒りを助長させているようにも見られる。
「彼の言うことは正しい。貴方は家を捨てた。その貴方が兄として口を出すべきではない」
「・・・・・お前が家のことに口を出すんじゃねえよ」
「奇遇ね、その意見おそらく彼と同じだわ」
「お前には関係ないだろ!」
「そうよ、関係ないわ。でも家を捨てた貴方こそ、今更なにを言おうっていうの?貴方と彼を繋いでいるのは貴方が厭い捨てたその血だけなのよ」
蒼白な顔をしたピーターと一ミリも動かぬリーマスの後方ではざわざわと人が集まり始めている。その騒がしさを駆逐するのほどの静寂がそこにはあった。やがてシリウスはレギュラスを掴んでいた手を離し、醜悪な顔のままで「失望した」と言い捨て沈黙を終わらせた。
「お前も俺に家名が無くなったら離れるクチかよ。・・・・・・うんざりだ」
がゆっくりと杖を降ろす間にシリウスは背を向け、ジェームズも杖をしまいながらそれに続く。ついでリーマス、遅れてピーターと、どよめく観衆を割って四人は去って行った。
レギュラスは四人の背に向けていた視線をへと移した。自分が恐れているものも彼には分かっていなかったが、それはとても慎重にされたことであったと言えよう。
彼らの背を最後まで見送ってから溜息を付くは、「嫌われちゃったかしらね」と僅かに苦味が残った声でぼやいている。前髪を掻き揚げる顔は苦渋に満ちており、自分を戒めているようにも見える。彼女が冷静さを失っていたらしいことをレギュラスは今更ながら悟った。
「・・・どうして」
「え?」
「どうしてあんなことを」
レギュラスはそう聞かずにはいられなかった。シリウスの友人であるが、関係を乱してまで自分を庇ったということが全く理解できなかったのである。
は前髪を絡ませていた手を下ろし、感情を綴じるようにゆっくりと瞬きをしてから、透き通るような光を持った眼を窓へ逸らした。
「シリウスがそれを悔いていないとは思わないけれど、貴方は全部を押し付けられたのでしょ。それなのに貴方を叱るのは彼の驕りだと思ったし、彼が放り出したそれらを捨てずにいる貴方はすごく、」
そこでは言葉を切り、続きを探すというよりは先を修正するようにして息をついた。
「・・・尊敬しているの」
吹く風は冷たく二人のローブを揺らしていたが、レギュラスはまるで寒さを感じなかった。



あくる朝レギュラスが食堂に着いたときには、シリウスとの"破談"についてのことがそれこそ机の端から端まで伝わっていた。争点がレギュラスの死喰い人入りである、ということまでは広まっていなかったものの、シリウスに最も近い位置にいたが"失脚"したことへの喜び、又はほどの人がシリウスと付き合いを持っているということを嘆いていた連中の喜びもあって、スリザリンに関しては大体においてが歓喜と賞賛であったことは言うまでもない。
ともかく、その本人達は会話一つ交わしていないようで、シリウスなどはあからさまに視線を向けないようにしている。は普段と変わった様子はなくただただ友人と笑い合っていたが、やはりシリウスに話しかけようという意思は見られない。彼らの寮の机が隣同士であることが、このときの為に仕組まれた必然のようである。
レギュラスは食事中何度かへと視線を向けたが、それが絡み合うことはなかった。



とある空き教室の前でレギュラスが足を止めたのは、シリウスの怒鳴り声がドアの隙間から漏れ聞こえてきたからだった。
夕方のことである。斜陽は廊下の殆どを染め抜き、対岸の壁までをも半分ほど侵食している。風は少なかったが、木々は微細なそれをも感じ取ってさわさわと音を重ねていた。レギュラスはこの廊下が好きであった。だがそれも、続く兄の声のせいで相殺されてしまっている。
「何度言われたって俺の考えは変わらねえよ」
「じゃあ、本当に仲直りしなくていいのかい?」
少し呆れを帯びた声はジェームズのものである。
「それで良いって言うなら、君、何に対してそんなに怒っているんだい」
「怒っちゃいねーよ。大体、あの女とだってそう親しかったわけでもない」
レギュラスは特に気になるわけではないが、と自分に言い聞かせながらドアの隙間から中の様子を伺った。中では丁度、ジェームズとシリウスが向かい合って座っている、そのジェームズの斜め後ろで、リーマスが手に持っていた本をパタリと閉じたところであった。
「そう?この間、色恋目当てじゃない女友達はだけだってぼやいてたような気がするけど」
それまで会話に介入していなかったのだろうリーマスをシリウスはちらりと見て、乱暴に頬杖を付きながら「あれは勘違いだった」と毒づいた。
「あんなの、周りの奴らと一緒だ」
レギュラスはそこで呆れ返って、時間を大層無駄にしてしまったと悔いた。しかしながら扉から離れようとした丁度その時聞こえたジェームズの言葉に、足を縫いとめられるようにして立ち止まった。
「じゃあシリウスはこれから、にも悪戯できるの?」
「・・・ジェームズ」
リーマスの呆れた声も聞き入れないでジェームズは少し楽しげであった。
シリウスはジェームズのそれが予想だにしない台詞だったらしく、しばし固まっていた。自分では考えたこともなかったのだろう。だが、そう長い間は考えず「ああ、出来る!」と結局は乱雑に言い捨てて立ち上がった。
「出来るに決まってんだろ、なんなら次の標的にしたっていい。あのすまし顔を歪めてやろうじゃねーか!」
シリウスは半ば叫ぶように言うと、椅子を足で乱暴にどけてからレギュラスの居る扉の方へと近づいた。レギュラスが慌てて扉の影に隠れたそのとき、やはり蝶番が外れそうな力で開けられたドアの向こうで「悪戯の内容を考えてくる!」と言いシリウスは振り返りもせずに廊下を突き進んで行った。レギュラスには気付かなかったようである。
早鐘を打つ心臓をなでおろしながらレギュラスは壁に凭れかかった。身体の芯から酷く疲労していた。
部屋の中ではジェームズがクスクスと笑ってい、レギュラスは半分ほど八つ当たりであったがイライラとするのだった。
シリウスが居なくなった部屋は落ち着いている。再び本が捲られる音がしたため、おそらくリーマスが新たな本を開いたのだと思われる。ジェームズは笑っている。
「シリウスって本当に不器用だよねえ」
「・・・それを分かってて逆撫でするような君の方が僕としては問題だと思うね」
レギュラスは全く持ってリーマスと同感であった。
「それで、はシリウスが好きなの?」
不意に、今まで喋らなかった甲高い声がレギュラスの心臓を再び揺らした。レギュラスは気付かなかったが、部屋の中にピーターも居たらしい。大方リーマスの影にでも隠れていたのだろう、とレギュラスは思いながら内心歯噛みした。
ジェームズは笑うのを止めたが、それには答えなかった。代わりにリーマスが相変わらず落ち着いた声で答えた。
「彼女はむしろ―――いや、そうなのかもしれない。けれどシリウスの貴重な友人だから、そうでなければいいと思っているよ」
レギュラスはそこで壁から離れ、廊下をふらふらと歩き出した。レギュラスは改めてがシリウスを好いている可能性を突きつけられて、なんとなく不愉快になった。確かに兄は優秀な人間ではある。それにはは相応しいだろうとも思う。しかし、同時に軽い失望を覚えずにはいられないのだった。レギュラスはそれを、血の存続を第一とする自分が愛や恋を侮蔑している故だと考えていたが、実際にはが自分を利用していたかもしれない事実への蔑みであった。は自分を見ていた、と。自分を真っ直ぐに見、それ故に兄を非難したのだと、レギュラスは今まで信じていた。しかしは兄を見るために自分を通していただけだった・・・。
廊下の橙色は跡形もなく消え失せてい、代わりに影とも闇ともつかぬ薄紫が辺りを充たしている。レギュラスは自らの長い影が隣を歩いているのをうつうつと眺めながら寮を目指した。



ミスター・ブラックは大切なものを厳選していそうだ。温室に咲く花々に縁取られたが浮かべた表情は淡く、レギュラスはそれが図星であったにも関わらず「そんなことはありません」と否定した。あれはいつのことだったか。
レギュラスはどのような物にも優先度を付け、どちらかを選ばなければならなくなったとき、どちらかを迷わず手放せるようしていたし、己の譲れない物というのをきちんと、それも限度を考え決めている節があった。それはレギュラスの几帳面さでもあったし、臆病さでもある。だからレギュラスは、そういう決定をくだせない曖昧な位置にいる存在が嫌いであった。例えばそれはシリウスであったり、であったりするのである。
そしてそれ故、恋愛感情などにもある種の恐れを抱いている。そもそも自分には存在しないものであるが、万が一それが発生したならば、自分の中の「序列」を乱すことになるだろう。レギュラスは恋慕の情を、それこそキーキースナップの脇に生えたあの雑草のようなものだと思っていた。あれは咲く前に摘まねばならぬ。
この意識は皮肉にも兄のものと似ている。そしてそれをレギュラスも承知していた。レギュラスはの恋が実らぬだろうなと思った。だがそれは不思議と憐れみだとかを含まず、無感情の上に載せられた事実に近い。レギュラスはまだ、という人を自分のどの戸棚に並べるべきか分からぬままであったのだ。
考え込み自然と俯くような形になっていたレギュラスは、ふと前方から騒がしい声がするのに気が付いて顔を上げた。廊下は突き当たりで左折しているが、声はその向こうから聞こえているようである。レギュラスは煩わしく思いながらも、ここを通らねば随分な回り道をすることになるので、少しの間逡巡した。が、その時聞こえたのがシリウスの声であったことに気が付き、慌てて角を曲がった。そういえば、シリウスはに悪戯をすると言っていた。もし、彼がうっかりに出会ったとしたら、衝動で何か仕掛けてしまうかもしれない―――!
残念なことにこのレギュラスの予想は当たった。
レギュラスが角を曲がって廊下を見渡したとき、そこにはとシリウスが居た。そしてそれは、シリウスが杖を掲げの上空に向けて呪文を放った瞬間であった。
レギュラスはそれを止める間もなく、ただ呆然とその光景を見つめた。
・・・それは皮肉にも美しかったのだ。
の頭上、シリウスの呪文によって現れた大量の水は曇り空の白い光を受けながら弾け・・・はそれをただ見上げていたのである。それは確かに避けられるようなものでなかったが、水を被るというその瞬間にも一歩も動かずにい、水が急に重力を思い出したように落ちた後も―――ずぶ濡れになっても微動だにせず、シリウスを真っ直ぐに射抜いていたのであった。
鳥肌が皮膚を這うように広がり眼を奪われる。レギュラスはシリウスの遥か後ろで、自分が悪戯を仕掛けられたかのように立ち尽くしていた。
「―――シリウス」
僅かにたじろいだシリウスはそれでも杖を降ろさなかった。は水気を帯び張り付いた黒髪を手で乱雑に払い除けた。
「確かに私は貴方の個人的なことに関与しすぎてしまったとは思うし、あれは言いすぎだったとも思うわ。けれど、そう。貴方の一部を否定しただけで私は用なし?この数年間で築き上げられたものは、貴方との間にあったものは、そんなに希薄だったとは。私、勘違いしていたみたい」
ぽた、ぽた、と断続的な水音が耳を奪う。レギュラスは嗚呼、と思った。視界に光が滲み揺れている。湧き上がるこれは、恐れていた感情ではないのか。敬遠していた、けれど確かにあることは知っていた、あの。
「俺が・・・俺が全部悪いみたいな言い方だな。お前が俺を裏切ったくせに、」
「裏切ったかどうかはともかくとして、最初に距離を置いたのは貴方の方だと思うけれど?」
「はぁ?」
「昨年度の秋だったかしら。急に避け出されて戸惑ったわ」
は珍しく怒ったような口調だった。シリウスは急に言いよどんだ。杖はやっと床を向いて、はそれを確認してからローブを絞り始めた。
「それは・・・」
「それは?」
「・・・お前が・・・俺に、その・・・色目を使ってるんじゃないかって。エヴァンズが、お前に好きな奴がいるっていうし、」
「はぁ?」
今度はが素っ頓狂な声を上げて、凍りついた。思わずといったところか、ローブを絞っていた手もそのまま固まっている。
レギュラスは心臓が跳ね上がるように思いながらも、立ち去ろうとしても足が縫い付けられたようで動かせずにいた。
「ええと・・・ああ、そういうこと。つまりシリウスは私がシリウスに向けてる感情が恋愛になったらいやだな、と。そう思ったということ?」
の呆れ声にシリウスは居た堪れなさげに眼を逸らした。それに更に呆れたようで、「自惚れすぎ」とが呟いたのを、シリウスは「うるせえ!」と怒鳴った。レギュラスはそのようなの素の言葉を聴くのは初めてであった。
「それだけ顔整ってたらそうもなるかもしれないけれどねえ・・・」
「それで実際違うのか、そうなのか、どうなんだよ!」
ここでレギュラスの中の何かが弾けた。と同時に足が動くようになって、レギュラスは本能的に危険を感じたのかもしれないが、ともかく素早く背を向け廊下を逆走した。
「違うわよ」
が、数歩も行かないうちにそれは再び止められることとなるのだった。思わず振り返ったレギュラスの口から戸惑いが漏れたが、その声はシリウスのものに掻き消された。からレギュラスは丸見えだが、シリウスにはレギュラスが見えていない。おそらく居ることすら気が付いていないのだろう。
「じゃあ!じゃあなんで俺だけファーストネームで呼ぶんだ!」
シリウスは半ば叫ぶようだった。ずっと考え続けていたことを遂に言ってしまったというように、安堵と後悔を剥き出しにして。
一日中空を漂っていた雲が流れたのか、窓からは日が暮れる前の暖かな光が差し込んで、複雑な透かし彫りの影がの顔に掛かる。ずいぶん絞っていたはずのローブからは、ぱちゃん、とまた水滴が落ちた。
は眩しげに眼を細めて困ったように笑った。
「それは、貴方が苗字を嫌っているからじゃない」
宙に漂う小さな埃たちが輝いて落ちていく。の足元で水溜りがキラキラと光を反射した。シリウスは、レギュラスのところからは僅かにしか見えなかったが、呆けたように口を開けて突っ立っていた。同じくも、すっかり怒りは解けたようで優しい顔をしていた。
「そんな、でも・・・・・・」
絶句しているシリウスは無様にパクパクと口を動かしている。それに対するの表情といい、レギュラスは彼らが真に友人であるのだなあと思った。
「今更なことだと思っていたのだけれど・・・信じられない?そうね、じゃあ私が好きな人のことを教えてあげようか」
唐突な言葉と共にが水溜りを割って一歩前進する。レギュラスは一瞬の視線が自分とぶつかったように思った。
「種をまく人」
「なん・・・・・・・はぁ?」
重たげなローブが纏わり付くように揺れている。シリウスは訳が分からないといった様子だ。
「ああ、分からないか。マグルが描いた有名な絵でね。私は絵の本質は一瞬を閉じ込めることだと思っているから、どちらかというとマグルのものが好きなの。特に印象派とか色彩的ものは―――それで、そう、その人の絵はとても綺麗で。太陽の光の中で種を蒔く人の絵で、私はそれが一等気に入っているの」
レギュラスはハッとした。急に脳裏に温室が広がって、そこにと自分がいる。レギュラスが種を植えたばかりの植木鉢を覗き込んで、が。
「キーキースナップの種を、とても丁寧に埋めていた。昨年のシリウスは確か、その時開発した魔法でぐんぐん育てて最優秀成績を貰ったんだったかしら?ミス・エヴァンズがあんなのは反則だって怒っていたのを覚えているわ。私もあれはずるいと思うわね。種なんか土に突っ込んだだけだったくせに」
が笑って。悪戯っぽく眼を細めながら、秘密を打ち明ける子供のように。
そして雑草を抜こうとしたレギュラスをそっと制止する―――。
「それで結局、誰なんだよ?」
シリウスが突然経を聞かされた後でその意味を尋ねるような体で訊いたとき、レギュラスの喉がひゅうと鳴った。ので、シリウスがここでようやく振り返りレギュラスの存在に気が付いたのだった。
「お前、なんでこんなところに・・・・・・」
シリウスが戸惑う中、は「ヒントはあげたでしょう」と人差し指を唇に当て、硬直するレギュラスを放置して背を向け、廊下を進んで行った。「いい加減着替えてくるわ、風邪を引きそうだし」と言い置いたので、シリウスがばっと振り返って、それから決まり悪そうに小声で彼女に謝罪したのを、レギュラスはぼやける意識の中で聞いた。
レギュラスは大切なものを厳選している。
彼は、恋などそれこそキーキースナップの脇に生えたあの雑草のようなものと思っていた。それは確かに心を豊かにするのだろうが、後にはそれゆえに心を消費してしまう。だから、咲かせてはいけない。咲いてはいけないものなのだ。
ぐるぐると頭の中を言葉が巡る。けれど同時に今あの植木鉢では雑草はどうなっているだろうか、とも思った。レギュラスは、実は雑草が蕾を付けたところをこの間確認したのだけれど、彼女が教えてくれたそれの花がどのようなものであるのかを見たかった為に、咲いてから摘もうと言い聞かせながら放置していたのだった。
いつまでも育てていられないことを知りながら一時的な好奇心に負けることを選んだのである。
ああ、でも。
もしその花がキーキースナップなどよりずっと美しかったなら、僕は。
「なあ、お前いつからそこにいたんだよ―――って、おい!?」
驚くシリウスの横をすり抜けレギュラスは走っていた。廊下を這う水溜りを割り、その水滴が跳ねて腕に付着したのも感じずに。僕は死喰い人になった。僕が大切に出来るものは限られている。何度も何度も制止の声が掛かるのに足はそれらを無視している。耳元で風が切れ、喉元まで動悸が込み上げるのを痛いほどに感じながらただの後を追った。
前を行くの背が遠く小さく見える。レギュラスは咳き込む危険性も一切考えず、人生でこんなに空気を感じたことがあったろうかと思うくらいに、息を吸い込んだ。
きっと、レギュラスの声に驚いてはすぐに振り返るだろう。そして向こうの壁に掛かった絵画の花が彼女を縁取って飾るに違いない。ならば、最初に伝えるべき言葉はもう決まっている。

あの雑草が咲いてしまったと言ったなら、彼女は呆れてくれるだろうか。





(Keep on sowing your seed.//120316)

Keep on sowing your seed, for you never know which will grow - perhaps it all will.
Harry Potter Request Ringさまに提出したもの。主催のアサキさまに感謝を。

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