一度骨折して接合された箇所は、折れる以前より太く頑強に修繕される。もう一度折れないようにとの学習からの補強である。しかしながら、強化された部分は通常の太さである部分との差異を生み出し、その境目は逆に折れやすくなってしまっているのだ。人間には、そういう、上手くできているようで馬鹿な部分がある。

リドルは学生のころからこのパブによく出入りしていた。ホグズミードの薄暗い一角にある小さな酒場で、客層はノクターン横丁を彷徨うような輩と似たり寄ったりだ。今その酒場で曲りなりにも看板娘をしている身のあたしでさえ、学生時代にはこのような場所に首を突っ込むことはなかった。学生達の誰もがなんとなく忌避するように、あたしも例に漏れず、この近辺に濃い闇を感じ取った。子供は余計な経験がないおかげで本能が上手く働くことが多い。だから、警戒心の強いスリザリン生よりも、むしろ自身をわざと危険に晒して楽しむようなグリフィンドール生の方が、立ち入ることがままあった。けれどそれも極々一部の話で、基本的にここは日の当たらない場所に生きるべくあるような人々しかいない のだった。
そういう曰く付きの場所に、あるとき、学生だったリドルはふらりと現れた。その時のリドルは、なんというか、瘴気の極めて高濃度にされたものを纏っているようだった。虚ろながら高揚し、暗い悦びに浸っている、とてもその年齢に似つかわしくない様態。普通なら躊躇う場所に平気で踏み入る足取りは、危機感のない幼さとは違う。自分が立つべきでない場所が存在するとは思っていないのだ。
そのリドルが、店内にいくつか並べてある机や椅子を横切り、真っ直ぐにあたしの方へと歩み寄ってきた。
あたしはそれを見て、ああ、こいつは何人かヤったな、と思った。
それが濡れた意味なら、お年頃だと笑ってやれたものだが・・・・・・。
「お前が店主か?」
リドルの第一声はそのようなものだった。まるで威圧することに慣れ、下からの目線など持ったことがない口ぶりだ。
「・・・・・・いいえ?」
「だろうな」
少しの嘲りを含んでの返答に間髪居れず肯定が返ってくる。その頃あたしは働き始めてそう長くなかったので、ある程度観察力があれば容易に知れたことだったろう。
その時、リドルの他に客は居なかった。時間帯が早く、店を開いたばかりだったのだ。あたしは、退屈してカウンターに頬杖をついていたのを、頭を僅かに浮かせてから適当に愛想笑いした。
「初めてのお客様ですよねえ。店主にご用事で?」
「"裏"の方だ」
裏、というのはつまり、この店の本業のことだった。この通りにある店は大体そうだが、どの店にも裏の顔というのがある。特定の人間しか知らない、世界の地下で行われるやり取りだ。もっとも、このパブはそういう店の集まりの中でも一番表通りに近く、普通に酒を飲みに来る客も半分はいるくらいで、それほど深くもない。
店の種は様々だが、このパブでは、死体を扱っている。買い取った死体を、人物が分からぬ程度に「加工」して売りさばいている。魔法使いの死体というのは、たとえ部分的でも利用価値が高いらしい。その手の魔法使いの間では常識なのだ。そして、死体を売る店ということは、つまり、処理に困った死体を買い取る店でもある。
「・・・・・・へえ。そう。いいわ、待ってて。何か飲む?」
途端に態度を軟化したあたしに向かって、リドルは露骨に顔を顰めた。不快を隠そうともしない。
「年下だからと侮っているのか?」
言葉まで途端に攻撃的になって、纏っていた瘴気はより濃くなった。高揚していた気分に水を指されたとでも言いたげで、席に座る動作は優雅ながら荒い。壁に掛かった黄ばんだポスターや動きの鈍くなった写真などにちらりと視線をやって、空間全てを嫌悪するように前髪を掻き上げる。
「違うわよ。正客だったら、愛想を振りまかなくても来る時は来るでしょ」
ばさりと言い切ったあたしにリドルは少し驚いたようだった。目を眇め、あたしを値踏みするように不躾な視線を寄越す。丁度九時が来て、壁の奇怪な形をした時計が唸った。画家が気ままに描いた線をそのまま枠にした、というような時計で、時刻を知らせるのは鳩ではなくトロールのような鳴き声だ。普通に飾ったならば浮きそうなアンティークであるが、雑然として元の木目が見えないくらいに壁の埋め尽くされている店内では、不思議と溶け込んでいる。低い天井から下がるランプがカウンターテーブルの前でぶらぶらと揺れていて、それが様々なものの影の形を同じく奇怪にしていたからだろう。
「エネルギーは節約すべきだ。賢明だな」
リドルの口調はあたしを評価するというよりは忌々しげで、まるで自分がそうできる状況でないことを呪うような凄みがあった。とりあえずあたしは棚からビンを取り、片手でボトルネックを握り締めてグラスに注いだ。店主が見たらブチ切れそうな乱雑さであったが、中身はそれほど良いものでもない。
「じゃ、未成年ということでノンアルコールワインでもどうぞ」
リドルは一時目をぱちくりさせてから苦笑した。「こんな場所で法を守るのか?」言葉からは毒素が抜け、単調で純度の高い声色だった。ゆらり、リドルの陰影が揺れる。
「まあ、渡らなくてもいい橋を渡ってもしょうがないでしょ。それこそ、エネルギーの節約ってやつ?」
ゆらゆらとワインのビンを揺らしながら頬杖を付きなおす。体温が移るようなビンの持ち方は本来相応しくないことなど承知の上だ。
それに、と先ほどの言葉に継ぎ足して、リドルの顔を改めて見る。光に照らされていても闇と相違ない色をした瞳は、つるりとしていて人間味がない。
「今の貴方、飲み物の味が分かりそうな顔じゃないわよぉ」
リドルの顔が愉悦に歪み、空虚な感情が浮き彫りになった。ちゃぷん、とビンの中のワインが踊った。



後々本人の口から聞いたことでは、リドルはその日、彼自身にとって意味深い殺しを行ったのだそうだ。リドルが誰であれ殺したということを見抜いていたあたしにリドルは驚いていたが、なんてことはない。長年"そういう"人間ばかり見ていると、殺しをしたことがある人間とない人間では、目が違うのだと分かる。たとえ鳶色だろうが翡翠だろうが、どれほど綺麗な色の目を持っていたとして、殺しをすると、その何層目かに濁りが出来る。
だが、比較するなら、その中でリドルはとりわけ綺麗な目をしていた。あたしが見てきた人間の中で群を抜くほど人を殺しても、それは変わらなかった。濁りが時々限りなく薄く見えなくなるくらい、透明な目をしている。
彼は人を殺すほど美しくなった。
美しく、少しずつ、浮世離れしていった。
目的を持つ人間には透き通るような強さがある。リドルはそれだ。今まで茫漠として生きてきてなんとなくこんな場所に流れ着いてしまっているあたしと比べれば、その差は歴然だ。しかし、それでもあたしはリドルを羨望したことはない。目的を持つ彼は強いが、それは必然であり、彼が選択したことではない。
あたしとリドルは何度か話をしたが、とりわけ印象に残っているのは「死」にまつわることだ。
リドルは何よりも死を嫌悪していた。
彼の、自ら死を選んだらしい母親が根底にあるのかと考察しもしたが、真偽は分からない。それを分かるほどあたしはリドルの事情に詳しくはなかった。
「死は現象ではない。病気のようなものだ。故にこれは克服されなければならない」
それがリドルの口癖だった。
「死はマグルのみに存在すべきものであって、魔法使いには必要ない。まして、自ら死を選ぶなんて愚鈍だ、詰るにも値しない。それはつまり己の価値を放棄するに等しい。死の後に得られるものを妄想する愚か者共が、一体何を成せる? 価値のないものに与えられるべきものが死であって、それを与えるのは僕だ。死は真の魔法使いにとって与えるものでなければならない」
あたしはリドルのこの考えにいまひとつ共感が出来なかった。あたしは、死とは生の前提であると考えているからだ。つまり、1+1が2であることを前提に数学が成り立っているように、生き死にが存在する上で生物は存在している。そこに、1+1を論破する意義などない。たとえリドルの言うとおり死が病気であったとて、それは救いだろう。あたしは死にたいなどと思ったことはないが、目の前でごうごうと風を立てながら通り過ぎる列車に、今踏み出せば死ねるということを思うと、ほんの少し安心する。少なくとも、ある限定した時と場面のなかでは、死は選び取れる自由なのだ。つまりそれは逃げ道で、それがない人生というのは漠然と広がる荒野のように、順路も果てもない。
もっとも、リドルには地図や前人の足跡などは必要ないのだろう。彼は己一人で世界に存在することが出来るなら、それを喜んで受け入れそうな危うさがあった。
そういう訳で、あたしとリドルは噛み合うようで噛み合わないことも多々あった。ただ、リドルはどうも学校では猫やら化け物やらの皮を被っているようで、だからここで雑然と思想を語らったり、それらを整理しようと参考に意見を求めることはしても、その噛み合わなさを追求しなかった。恐らく、最初からそんな高望みはしていないのだろう。
あたしもマグルを嫌悪しているきらいがあったので、話は適度に合わさった。
ただ、こんなところに居ても、あたしは表から抜けきらない人間で、完全なるこちら側の住人とは言いがたかったから、時折、リドルの見せる瞳の暗い輝きに、まるで指名手配犯の人相書きを見ているときのような、ひたりと背中に押し付けられた刃の冷たさを感じることが、あった。



あたしは、このパブに来るような輩は死んだほうがいいと思う。それは、道徳や倫理を鑑みての意見ではなく、そういう輩に、果たして生きることで得られるものがあるのだろうかと考えた時に行き着く結論だった。
そういう考え方が出来るからこそ、あたしはこちら側に染まりきらないのだろう。大抵の人間は、そんなことは考えない。
金ばかりを追いかけている者たちはともかく、それ以外では、そうする他に生きられない者たちばかりだからだ。彼らには、苦悩や痛みすらもない。そういう彼らには、リドルには悪いが、死以外の救いは存在しないだろうと、あたしは思っていた。
だが、それをリドルに言うと、リドルは鼻を鳴らして嘲った。
「何を謝ることがあるんだい? 彼らは死ぬべきだ。それに僕は同意する。もっとも、それによる救いが発生するかどうかは僕の鑑みるところではないがな」
声音は淡白で、くだらない論文を見せられた教授のようだった。リドルはカウンターテーブルの上に置かれたワイングラスの淵を、指の腹で、つ、と撫でる。それから音もなく持ち上げて赤い液体を喉に流し込んだ。成人して卒業を待つだけのリドルに出すのは、アルコール入りの赤ワインに変わっている。リドルの喉が静かに波打った。その時、リドルの目はぼやけている。目を閉じて飲み物を飲む習慣がないのに、どこを見れば良いのかが分かっていない。だからその瞬間だけリドルの目は焦点を失っている。
グラスを置いて、リドルは優雅に手を組み、その上に顎を載せてとろりとした笑みを浮かべた。
「君は、ここの住人に相応しくない考え方をする。彼らの救いの存在なんて、どうして考えようと思う?」
リドルの背後、闇が溜まっているパブの隅では一人の壮年男性が静かに壁に凭れかかっていた。それは、身じろぎもせずそこに座り続けている。
「人間は皆救いを求めているものよ」
壮年男性の足元には血が円を描いて広がっている。
リドルはそれを一瞥し、再び手を組み直した。
「僕は救いなどいらない。僕が僕である為に必要なのは僕だけで、それに終わりを求める必要はない」
あたしはそれに悲しみのような感情を抱いてしまった。リドルは救いを事象として語り、欲しい欲しくないで論じず、必要かどうかで判断する。この判断基準は時に酷い吐き気を生む。そういとき、彼が童話に合理性を求め続けている子供のように見えることが、ある。
結局のところ、リドルの理論はリドルの為にしかない。一言でいえば、僕以外は死ね、というそれだけのことのようでもある。あまりに明快な憎しみで、けれどだからこそ深く、呪いじみている。
それきりリドルはこの論議を続けようとしなくなった。代わりにワインをもう一杯所望してから、今度はあたしのことを観察した。あたしはその日、クリスマスのサンタが被る赤い帽子を頭に載せていて、服は赤いローブを白いファーで縁取ったものを羽織っていた。このパブは表の客も半分は訪れるため、行事ごとにそれなりに参加する。リドルにはそれがどうも間抜けか阿呆に見えるらしく、初見の際には馬鹿にしたように口の端を上げて目を細めていた。
「君はどうしてこんなところで働いているんだい?」
さあ、とあたしは下手すれば流していると勘違いされそうな受け答えをした。
所作も乱雑に注がれたワインがグラスの中でうねり、渦を巻いている。
「たぶん、可哀想な人が好きなのよ」とあたしは言った。
「どうしようもない不幸の中にいる人間は、そうでない人間より綺麗だから」
ワインを注ぎ終え、持ち直したビンの口から、つうと赤い汁が垂れる。それがラベルにまで達し、前回や前々回の染みと同じように白い紙に線を引いた。ありきたりなホラー表現のように、画面の端から垂れる血を描いている。
「だからあたし、そういう意味で、リドルのことはだぁいすきよ」
舌足らずのあたしの声に、リドルはその端整な顔を一ミリも崩さなかった。
あたしはそれを見て、ああリドルを立ち止まらせることは誰にも出来まい、と思った。リドルは歩き続けている。ただ立っていることは歩くことよりもエネルギーを使う、そのことを彼は知っているし、立ち止まることは彼にとって無意味だ。自転車が走り続けなければ倒れるように、飛行機が進むことをやめたら落ちるように、リドルは歩き続けることでしか存在しえない。どれほど足の裏が痛み磨り減り皮が捲れようと、彼に選択の余地はない。選択することを彼自身が許さない。そういう意味では、リドルにとって死は逃げ道ではなく負けなのだろう。動物染みているとさえ思わせる。一部の思考の死が死と負けを大別できぬ事態を招いている。
リドルの艶やかな唇が動いて、それが滑らかであるのが、人間味を思い出させるというより、人形のリアルな動きを見ているようで不気味だった。リドルは「君に愛を囁かれるとはね」と小さく息を吐いて、それから出来すぎた優等生の顔で微笑んだ。



エネルギーを溜め込もうと肥え太った豚が自重の為にエネルギーを使えない、怪我をした箇所を修復しようと心臓が血を送り込むのが沢山流れ出す、危機を教える痛みが危機を呼ぶ、ストレスが引き起こす病気自体がストレスになっている、上手くいっているようで何もかも上手くいっていないのに、したり顔で地球は回っている。
あたしはリドルがいずれ破滅するだろうことをなんとなく知っていた。あえて言うなら無意識が統計学的に割り出した知識にすぎない。しかし、確信している。
店内にハロウィンを彩る様々な小物が、普段の雑然とした装飾の上にうざったく並べられ、いつもは薄暗い店内がランタンのせいで僅かに明るい。中にはあたしが彫ったジャック・オ・ランタンもあって、そいつだけが周囲と浮いて屈託の無い笑みを浮かべていて、我ながらぞっとする無邪気さだった。
客足は相変わらずまばらで、普通の客足も途絶え、黒いローブをずるずると引き摺る痩身の女性が帰ってからはしんとした静けさに満ちている。あたしは今日も今日とて需要のない装いをしていて、襞のついた黒いドレスローブに、羊に似た曲がった角付きのカチューシャで、中途半端な悪魔の仮装をしていた。裾が短いからか、普通の客にはそれなりにウケた。
そうして、今日もリドルは店に来た。卒業してボージンアンドバークスに就職したという彼の訪問回数は、日に日に増すばかりであった。リドルは恐ろしく不気味なほど美しくなっていた。すっとした細い輪郭に、白くきめ細かい肌、鼻筋は真っ直ぐ通っており、目は切れ長で睫に縁取られている。その瞳の中には、時折ちろりと、赤い炎のようなものが揺らめくことがあった。もはや芸術作品のように欠点がなく、陶器で出来た造形物が命を宿したのだと聞かされてもうっかり信じてしまいそうな、幻想と見紛う存在となっている。
そのリドルが、今、深夜三時を超えた人一人いない店内で、静かに目を伏せていた。相も変わらず振り子のように揺れるランプが彼の顔に掛かる前髪の影を揺らして、その黒が長い睫と繋がったり離れたりしている。開けばくっきりとした二重になる瞼は、彼の目のゆるい球形にそってなだらかに降ろされていて、ぴくりとも動かない。手を組んで椅子に腰掛けたまま、まさに陶器そのもののリドルは微動だにしなかった。
リドルの前には勿論アルコール分の入ったワインのグラス、それに口にしていたステーキ・アンド・キドニーパイの皿が置かれている。その上にはリドルが使用したフォークとナイフが揃えて置いてあり、銀色の光沢にランプの黄味がかった光を写し取っていた。
あたしはそうっとリドルの顔を覗き込んだ。
彼が人前で眠るなどというところを、あたしは初めて見た。弱みを見せないという意味でもそうだが、あたしは、リドルがそういう生物的な行動を取ることが上手く想像できないのである。
リドルはもうそろそろこの店を利用することも無くなるのだそうだった。つまり、本格的な暗躍を始めることで、死体を処理する必要性すら失われるのだ。
立ち止まれない彼は、底なし沼の中を躊躇なく歩く。それが当然の道であると、どろついた液体の中で腕を動かし、重たい足を平然と持ち上げて、優雅に、どんどんと、沈んでいく。
あたしはいつものように、彼の救いについて考えた。
息が出来なくても死なない、目に泥が入り込んでも、それがどれほど痛みを発しようと睨むことをやめない、心臓が動く限り、否、心臓が動かなくても、死を拒み存在し続けようとする。彼もまた、上手くいっているようで何もかもが破滅を呼んでいる。
あたしはふいに、リドルの首を掻っ切ってやりたい衝動に駆られた。その白い皮に切れ目を入れて、赤々とした血を流させ、それで終わらせてやることだけがリドルを救うのではないか。この町を彷徨うクズたちとは一線違うリドルも、それらと同じ方法でしか救われぬのではないか。そして、本人が救いを必要としない以上、それは与える何者かが必要なのではないか・・・・・・。
考えはすとんと胸に落ちた。それで、あたしの手は、小さく震えながら、リドルの前の食器に触れて、銀色のナイフを握った。ナイフの表面には油が薄く付着していて、ランプの光がぬらりと張り付いている。それをゆっくりとリドルの白い首筋に近づける。首には青く太い血管が通っていて、すべらかで、白磁のようだった。ナイフの切っ先はけして鋭くないが、この柔らかな肌を簡単に突き抜けるだろう。あと数ミリであたしの持つナイフはリドルの首に触れる。そう思うと嗚咽が込み上げて、押し殺すと胸の直ぐ上に湿った砂のようなものが、圧縮されて固く溜まってゆく。あたしはリドルが好きだった。とても、言葉では語れない感情として、いつしかリドルに焦がれ、恋と呼ぶには熟しすぎ、どろどろと自壊する果実がそこには生まれていた。
ぐ、と親指に力を込める。それだけでナイフはあたしの身体の延長のように、固く鋭く融合した。
最後にリドルの顔を見ようと、あたしは視線を上げた。すると、リドルは薄く開いた瞼の奥で、燃えるような赤い眼を光らせて、あたしを見ていた。無表情の面に切れ目があって、そこから宝石が覗いているような、冷たく無機質な光。
誤魔化しようがない、と思った。いつの間に目覚めていたのか、と驚き、あたしはナイフを掴む腕が粘土のように歪む錯覚を催した。今にもナイフを取り落としそうなあたしを、リドルは指一つ動かさず観察している。
やがてリドルはにわかに微笑した。薄く唇を引き延ばして、そこだけが顔という造形のなかで穏やかだ。モナ・リザの半分だけ微笑んだ顔のように、暗く、奥に潜む魔力を感じさせる、まさに魔法使いと呼ぶべき様相だった。
「僕を殺したいんだね」
その囁きは甘ったるく悪魔の手のように身を撫でた。あたしが肯定も否定も出来ずに凍り付いていると、リドルはやはり笑んだまま、視線だけを動かしてワイングラスを見た。
「では、君に僕の魂をあげよう。だがその前に一杯飲ませてくれないか」
リドルは右手の人差し指の腹で、つうっとナイフの刃の部分をなぞった。
それから、戸惑うあたしの手を掴み降ろし、「ワインを」ともう一度言う。取り上げたナイフを食器に置き直して、いつものように優雅に足を組み、カウンターに肘をついた。
「なんだ、知らないのかい。ジャック・オ・ランタンにまつわる伝承さ」
なにがなんだか分からないあたしは震える足で立ち上がって、ワインの棚に手を伸ばした。リドルはあたしに構わず、一人ぺらぺらと語りだした。
「その昔、アイルランドにいたジャックという名の鍛冶屋は、人を騙すのが得意だった。それで、自分の魂を奪いに来た悪魔に、『私の魂をあげるから、その前に一杯飲ませてくれ』と懇願し、悪魔を六ペンスに化けさせ、騙して財布に閉じ込めるのさ。そして、出して欲しいなら代わりに自分の魂を奪うなと約束させる。やがて彼は死に、生前の行いから天国を追い出されて地獄に辿り着くが、そこで悪魔はジャックに言うんだ。『絶対に魂をとらないと約束したから、おまえを地獄に入れることはできない』と。そしてその代わりに、延々と暗く続く道を歩くことになるジャックに、悪魔は地獄で燃えていた火のひとかたまりをあげた。それが、ジャック・オ・ランタンさ」
ワインを注ぐあたしの手は震えていて、注ぎ終わったというときにグラスを倒してしまった。
グラスは無様に転げ、中身はぶちまけられて、リドルの左腕に掛かった。リドルはそれをちらりと見たが、払いのけただけだった。赤い汁がリドルの手の甲を滑り、垂れる。
リドルは青ざめたままのあたしを見て、「帰るから明かりをくれないか、」と言った。
あたしはリドルの話が頭をぐるぐると巡っていて、暗い道を死ぬこともできず、ランタンを片手に延々と歩き続けるリドルが鮮明に思い描かれて、それが現在のリドルと重なって、動くことも出来なかった。リドルはそんなあたしを見て小さく溜息をついた。
「あの伝承の悪魔は、」とリドルがあたしの角を見て冷たく嗤う。
「どうにも人を信じすぎるし、愚かで、優しさに満ちている。それよりか、悪魔を騙した人間の方がよっぽど悪魔らしい。本当に恐ろしいのは人間なんだ。悪だと分かりきっているものが、悪を善で隠せる人間ほど恐ろしいわけがない。君も、人を信じすぎるし、愚かで、優しさに満ちている。僕が君にだけは心を許しているとでも思ったか? 君に見せているのが本当の僕だと思ったか? 全く持って愚かだ。そして君は、僕を救えるのは死だけだとでも思って、それを与えようとしたのだろう。そういう君の優しさと呼ぶべきものが、」
リドルはそれまでの苛々とした態度を一変させた。言葉を切って、ぞっとするほど美しく凄惨な笑みを浮かべ、その瞳を真紅に染め上げた。
「僕はだぁいすき、・・・・・・だよ」
粘着質でオイルのようにぬらぬらとした、恐ろしく甘美な響きの声音だった。それには、添加物で作り上げた甘く鮮やかな皮の下に、粟立つ毒が今にも腑を破ろうと待ち構えているような、憎悪と嫌悪を織り交ぜたものが含まれている。
リドルはついと杖を掲げた。そして、先ほどとは似ても似つかない空虚な声で、「僕に明かりは必要ない」と言った。
それはあたしが聞いた中で、たった一つだけ、彼が死を懇願した言葉だった。いずれ来る時が来て、終わりの果てで同じく闇を彷徨うことになっても、明かりなど欲しくないと、そう願う声に聞こえた。
その瞬間、あたしはリドルの手の甲に視線を奪われた。赤く透明なワイン、その水滴の中の白い肌にのった泡が、あまりにも綺麗だった。



リドルは杖を袖に仕舞うと、店の奥から近づく人の気配に顔を上げた。それから、カウンターに目をやった。転がるグラスの横にぶちまけられたワインは食器にかかり、血色のものをナイフとフォークを使って食べていたような光景が出来上がっている。そのカウンターの端にはジャック・オ・ランタンが積み上げられていて、一番上に載っかっている小さなものは、無邪気に笑っている。
リドルはついと目を細め、それからしばらくして現れた店主に向かい薄く笑んだ。
「ああ、良い所に来た。そこの死体を売りたいんだ」





(仮装//121031)

だぁいすきって言わせたかっただけでこんなダークなものが出来上がるとは思わなかった。
リドルを描写しているだけで幸せだった。
しかし、言わせて貰うなら、完成したものを見て、ここまで誰得なのか分からなかったのは初めてである。
私得ですらもない。
徹夜してアドレナリン大分泌状態で妄想するとこういうことになると知る良い戒め。
ハッピーハロウィン。

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