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告白/リドル
bone fish/レギュラス
rob/リドル
餓鬼/佐助
辺際にて/佐助
絶対悪は浄化を願う/リドル 
小狡い甘み/銀時
ささやかな戯れ/佐助






(告白/リドル)

魔法生物飼育学が好きだった。昔から動物だとか虫だとかには強くて、いろんな生物と出会うことが毎日楽しみだった。禁忌の森に入っては新生物を探した。ケンタウロスに出会ったこともある。私は、知性のある自分とは違う生物というのが、そこにいるということが不思議だった。マグル生まれの私には、それらが駆逐されていない世界というのが、まるで原始世界のように面白みを持って映った。魔法使いは、他の生物の駆逐しない。危険な生物を絶滅させない。魔法薬に使えるというのもあるのだろうけれど、強さとか、恐れとかいうのに、とんと鈍い。それはおそらく、知性を持っていてなおかつ劣っているマグルという生物がいるからで、自分が生態系の頂点だと信じるマグルたちには理解のできないことだった。
魔法使いは、強きものには支配されるか、それに打ち勝つかしかないのかもしれない。勝つ力があるということは、生存競争を放棄できないということ。支配されるだけで生きていくことができないということ。

初冬だった。地面は落ち葉で埋め尽くされ、生徒たちはそれを魔法で集めて造形物を作って遊んでいた。湖の上もそうで、水面が見えるのは中心に近い部分だけ、その他は茶色で覆われている。
風が乾いていて、唇は割れて、鼻の頭はぱさついていた。
リドルは早足で歩いていて、私はそれに追いつこうと走った。
「リドル、この後時間はない?」
リドルは振り返って、困った顔をした。
「申し訳ないけど、課題が溜まっているんだ」
「ねえ、待って、待ってよ」
「・・・・・・どうしたんだい?」
私が息を切らせているので、リドルは親切に立ち止まって、私を慮った。
私はそれを見ると想いが募った。苦しかった。リドルの、誰にも与えられるそのやさしさが、尊くて眩しくて仕方がなかった。リドルはどうしてこんなにいい人なんだろうと、毎日のように思って、自分の醜さに消え入りたくなる。どういう環境で育ったらこんなに良い人間になれるんだろう? 周りの大人が同じように優しかったのかな。そうなろうと思ったのかな。考える。リドルのことを。リドルの生活してきた温かみに溢れていただろう場所のことを。この前そのことを聞いたら、リドルは「そうだね。僕はとてもいい人たちに囲まれて、恵まれていたんだと思う」とはにかんだ。その声の優しさといったら! それから、こんなこともあった。リドルの顔があまりにも綺麗だから、ご両親のどちらからいただいたのかしらね、と言うと、リドルは一瞬目を伏せた。きっと、亡くなったご両親について考えたに違いなかった。「もしもお父様似だったなら、お母様がいらっしゃれば間違いなく見惚れていたわね」と、私は少しの冗談を交えて言った。リドルはゆっくりとした動作で紅茶に口をつけて、苦笑した。「残念ながら幼いころで覚えていないけれど、ヘルパーの話によると僕は母親似らしいんだ」リドルの睫は震えていた。リドルはきっとお母様が大好きだったのだろうと思った。カップを握る手には力が込められていた。今にも割れそうだった。
リドルとの会話のすべてが忘れられなくて、私には宝物だ。私はリドルがどうしようもなくいとおしかった。
授業も聞かないで、リドルへの告白の仕方を考え続けても、結局それを行う機会なんて来なかった。町のカフェテラスで。寮の談話室で二人きりで。図書館の隅で。色々と考えたって、そんな状況はやってこない。リドルは遠くて、私には話をするというのでさえ難しい。
「私、リドルが好き。好きよ」
私の、その、口を滑らすような、息せき切った告白を、どうしてあの時に言ったのかと、今でも思う。場面も、時も、会話も、何一つ整っていなかった。無様だった。感情を込めることすら、できていたかわからない。そもそも、リドルのどこを好きかも自分でよくわかっていなかったのだから。
ただ私は、リドルに自分の全てを明け渡したかった。リドルは心も身体も魂でさえもあますことなく、完成されているから。
私はもしかしたら、ケンタウロスを愛でるように、ノルウェードラゴンを美しいと思うように、リドルをそう思っていたのかもしれなかった。私はマグルじゃないから、自分を生態系の頂点だなんて思わない。人間なんかよりすばらしい生き物はたくさんいる。そしてそれは、きっと、リドルみたいなものだ。
私の告白に「ありがとう」と囁いたリドルは、私への慈しみに満ちていて、美しかった。少しの申し訳なさを表情に滲ませて、それでも微笑んでくれるリドルは私が知る中で一番やさしい人だった。






(bone fish/レギュラス)

レギュラスはそれきり喋らなくなってしまった。レギュラスは怒ると目を伏せ、口を引き結び、押し黙ってしまう。込み上げた憤りを無理矢理飲み下そうとするみたいに、怒りをやり過ごそうとするみたいに、そしてそれに精力の全てを注ぎ込んで、口を噤む。
そういうとき、やっぱり私は黙ってしまう。黙って、時が過ぎるのを待つ。
いつだったか、同じように私が些末なことでレギュラスを怒らせたとき、彼は言った。僕を怒らせて楽しいか? 私は答えられなかった。レギュラスの声音があまりに変わらなかったからだ。
私はそういう怒り方をする人を知らなかった。私の周りにいた人は、怒りたくて怒っている人ばっかりだったから。
そういう人は相手が何を言うかはどうでもよくてただ感情をぶちまけ喚き散らしたいだけなのだ。だから私はそういう人を、黙ってやり過ごした。まるで聞こえていないかのように他方を向いて、ぼんやりと視線を彷徨わせ、ランチのことなどを考えた。暫くするとそういう人たちは元に戻るから、それを待つのだ。まるで地震が収まるのを机の下で待つように、身を丸めて、膝を抱え込み、ひたすら世界が変わるのを待っている。
レギュラスも――レギュラスもそうだ。私が他人を受け流すように、レギュラスは自身の怒りさえも受け流してしまう。波というのはいつまでたっても荒れていられるものではない。時間が立てばどれほど強い思いも収まってしまう。そういうことを、レギュラスは知っている。だから自分の怒りさえもやり過ごせてしまえる。それが去ってからしか喋らない。レギュラスはそういうことだけは上手だった。慣れているんだろうと、思う。
「紅茶を飲まないか」
暫くしてレギュラスが言った。眉間の皺がなくなり、うっすらと開いた目には長い睫がかぶさっている。私はとても久しぶりに喋ったような感覚で、かすれた声で喋った。
「うん」
「僕が淹れる。君が淹れたのは美味しくないから」
レギュラスはゆっくりとソファから身を起こした。すっと前を横切って、レギュラスがティーセットを棚から取り出し始める。ローブから零れるように見えた白い手首に青い血管が透けている。私は記憶のなかでごめんなさいを言ったことにする。私たちは弱い。酷く、弱い。
今、怒りという魚は喉から落ち、とぷんと液の中に浸かって、レギュラスの胃の中で泳いでいる。艶やかな鱗を少しずつ落としながら回遊し、時折眠りについて、泡の息を吐く。潮が満ちるのを待っている。世界が変わるのを、待っている。






(rob/リドル)

「命を奪う」という表現は、彼の行為に不似合いだった。
命を奪い取れているのなら、そしてそれを自分に還元できていたのなら、彼があそこまで枯渇することはなかった。それは他の殺人者にとってもそうだろうが、彼は別格だ。それでもこの表現に固執するならば、彼は命を奪い、そして捨てている。彼は彼の行為で何も得られない。またその分だけ自分のものを零しているのだから、まさに消費するだけの、他者をも自分をも壊すだけの行い。壊す、ただそれのみが彼の生を飽和させている。
命を奪って捨てる。幸福を奪って捨てる。愛を奪って捨てる。魔法を奪って捨てる。
マグルを憎むというには魔法界に固執し、魔法界を憎むというにはマグルに執着している。
彼は、奪って、捨てるだけ。
ああ、リドル、貴方が貴方の心を奪ったもので満たせたなら。






(餓鬼/佐助)

こわくはなかったんだ。私は佐助くんがどうしても必要だった訳じゃあないし、生きていく為に必要なものはもう他に持っている。例え過去改変が行われて私と佐助くんが出会わないように世界がなっても私はそれはそれで生きてるんじゃないかなあと思うしだから佐助くんを好きだったのとそれとはあまり関係がなかった。私はいつだって一人ぼっちだったしそれを悲しんだことはないし原因は皆を見下してしまう自分にあったから仕方の無いことだ。人を見下すのはそれなりに楽しかったけれど同じく壇上から見下している人間がいることに気が付いてからはそちらの方に興味がいった。佐助くんは見下すことを楽しんでなんかいなかった。ただそこから降りられないからつまらなそうに下を見つめている、そんなひと。澱んだ目をして凄絶な笑い方をするひと。佐助くんの目は普通の人が見ないようなところを見すぎてしまった。
私と佐助くんはそういう場所の話をひとつもしなかったけれどお互いの中にそれがあることは知っていたのだ。
佐助くんは下の人たちの顔を器用に真似した。しゃがむのが上手だからみんな佐助くんの立ち位置に気が付かないのだった。だがそれもやがて崩れる時が来た。下の人たちは私たちと違って成長するのである。階段を上りすぎたせいで筋肉の付いた足はなかなか成長しない。育つ前に筋肉が付きすぎると身長は伸びないんだって。だからきっとそういうことなんだろう。そういう場所に早くから到達した人間はすぐに成長してしまうけれど、そこで成長は止まってしまう。私と佐助くんがそうだ。そうだった。なぜなら、成長の仕方を知らないからだ。それと違って下の人たちはぐんぐん成長した。私は小さいままだった。佐助くんも。けれど佐助くんは救われた。真田くんに救われた。
私は変わらない。成長の仕方を教えてもらう前に友達はいなくなってしまった。壇上に立っても役柄が分からないから私はピエロなんだ。佐助くんが好きだった私はピエロになったから、もう作り物の涙しか流せないし何もこわくはない。澱んだ目は笑うと隠れて見えなくなってしまうんだ。






(辺際にて/佐助)

「幸せか?と聞かれたら、幸せだと答える。それはどんなに気分が落ち込んでいて、自分を不幸であると感じていても、そうする。そうである私でなければ幸せになれないと知っているから」
私の言に佐助は凪いだ。先ほどまでブランコの鎖を握っていた手からの鉄臭い香りが、ぼわぼわとまとわり付くようにそこにあった。
「でも、佐助は違うのね」
「佐助は『幸せだ』って言葉にするたびに、まるで熔けていくみたいだ。そうして崩したものを材料として、築堤する・・・何も見えぬようにと、堤を」
哀れと言うべきだろうか。淡い笑みでその弁口の代わりとし、遍在する幸福に目を伏せる。佐助は何を待っているのだろう。幸福を幸福と気付くことで、彼のそれは形を失う。求めるしかできないのだ、彼は。触れると消える粉雪を積もらせようとするが如く、理を失った行いを繰り返し続けるしかない。
「俺もアンタも、もっと簡単に生きられたらいいのにねえ」
僅かに振り子するブランコに座って、佐助は上を見上げた。ブランコを支える支柱の錆ているのを慈しむかのようだった。
「仕方がないか。俺達みたいなやつは、耐性がないのさ。・・・幸福ってやつに」
すとんと音もなく佐助は地に降り立ち、佇立している私とは正反対の、公園の出口へと向かう。私は以前より用意していた別れの文句を口にした。
「・・・お幸せに」
背に掛けた声の相槌は頭の傍で揺られた手のみ。彼のブランコは未だに往復を繰り返している。






(絶対悪は浄化を願う/リドル)

僕は僕を見殺しにしなければならないのか?

今にも自分の口が意思を飛び越え脊髄の命令で叫びだしそうになるのを、僕は幾度となく感じ取った。肺を掻き毟り、心臓を打ち捨てたくなるような、皮を剥がされているような痛みに、じわりじわりと血が染み出す様子がありありと脳裏に浮かび、その中をまるでニーチェの唱えた言葉のような痛烈さを持って何度も何度も響くのである。僕は僕を見殺しにしなければならないのか。くるくるくるくる、死ぬまで回遊する魚のようにテロップは回る。

「それは、貴方が壊死していく兆候に他ならないと思うけれど。」

詩人だね、と僕の口だけが彼女に応対した。日の照り輝くうららかな午後であった。
思いの外体力を削り取られていたせいか、眉間に力が篭るのも避けられない。当然だと言える。出口を探す心の叫びを騙し騙しして必要な言葉だけを排出したのだから。
「貴方に合わせたのよ、"ヴォルデモート卿"さん」
穢れた血はその唇を湾曲させた。湿っているそれがてらりと艶を見せるのがここからでも分かるほどだった。
日光を取り入れすぎた温室は不快なほどに眩く、だがそれゆえに数年後には光は入る余地はなくなるだろうと思われる。木々は与えられすぎる栄養に戸惑いながら各部をまだらに太くし、蔦は絨毯のように空へと伸びていた。僕はこの場所が嫌いだ。また新たなテロップが流れていく。鬱陶しくなって、僕はそちらのテロップはそのまま吐き出してしまうことにした。「僕はこの場所が嫌いだ」何も篭っていないが故に憎しみが宿った言葉は見当違いの場所を抉る。
「そう。私は好きだけど」
「どうして?」
「貴方そのものみたいで」
「・・・君、性格歪んでる」
お互い様ね、と彼女は僕の顔も見ないままに言う。嫌味のようでどこか楽しそうだ。
「でも本当にそっくり。貴方がここが嫌いだというのなら、それは自己嫌悪の一種ね」
「僕が?」
どこからそんな発想が出てくるのか、見当違いの見解を間髪入れずに否定する。"この"僕が?そう言い直しても良いくらいだった。誰もが羨む力と才能を持つ僕が、自分自身の一体どこに負の感情を抱くというのだ。
けれど、そう告げた僕に対する彼女の笑いは嘲りと憐れみの入り混じった侮蔑であった。

「何を言っているの?親を憎む人間が自分の血肉を疎まずにいられる訳がないでしょうに」

自らの思いをも込めた言葉だったからだろう、彼女の顔は凄絶だった。この穢れた血は穢れた血を憎んでいるのだ。そのことを、なんと滑稽か、と表面で自分はあざ笑うのだが、心の奥底は囚われたように動かない。蓋を閉じることに必死になる。
この身体を巡る血に対する嫌悪が憎しみがあふれ出してそれは四肢までをも支配し体中に虫唾が走り今すぐ全ての血液を抜いてしまいたくなるようなそういう思いに蓋をする。何度も何度も押さえ込んだ蓋はひびだらけで鎖やら縄やらで無理矢理縛りこんでいるだけの粗末なもの。僕は知っている。彼女は知っている。過去から未来に続く道がふつりと途切れ、そこに今の自分が現れるようなことが起こらなければ僕らが救われることはない。僕らは救われない。いっそ今流れる血を全て排出し新しい赤々とした血を入れ直してやりたいと彼女は言ったが、それは僕には到底無理な話だった。僕は僕の血を半分愛していて半分憎んでいる。半分だけが壊死しなければならないのだ。それは酷く難しいことだった。
こんな時になって、僕は彼女が羨ましい。
彼女は僕が殺してしまえばそれが救いとなるだろうから汚い血を持って生まれたことを後悔する必要などない。だが僕は、僕はこのままでは生きてゆけぬ。僕は僕をいったん殺して別の人間にならなければならぬ。
それが僕の壊死に繋がるのだ。けれど本当にそうだろうか、と残り半分の自分は自問自答する。壊死する部分は穢れた部分であって僕じゃあないはずなのに、僕はどうして僕を見殺しにしなければならないのか?見殺しに、しなければ?

「死んでしまえばいいのにね」

穢れた血がぽつりと言った。澱みきった目で、白い手首に透ける青い筋を見ながら。
いつか殺してあげるよ、と僕は僕に言った。いつか君は死ぬんだ。僕はきっとそれを見殺しにする。






(小狡い甘み/銀時)

スポンジがフォークに押しつぶされ、生地が割かれることにより弾力を持って元の形に戻る。それだけの一連の力学的現象だけで、銀さんは気持ち悪いくらいにニヤついていた。私も甘いものはかなり好きといえる部類だが、銀さんの愛には敵う気がしない。今放送されている恋愛ドラマの主人公だって、こんなにも他の対象に愛を注ぐことは出来ないだろう。
「・・・・・・甘味より銀さんに愛されることは難しそうだね」
頬を潰すように肘をついてその様子を見やれば、銀さんは子供のように目を煌かせて「そんなことないなァい!」と全く根拠の見つからない返事を返してくる。それが何よりの肯定ですと思いながら溜息を付くと、「ん」突然眼前に生クリームが迫ってきた。近い。
「この無類の甘味好きと名高い俺がケーキを分けてやるくらいには愛してるって、そういうことだよ」
ニタリ、今度は子供でなく性悪の大人の笑み。
私は仕方なく、両手を上げて降参を示し、その一口だけのケーキを頂いた。
「って言っても、これ私があげたケーキなんだけど」
言うまでもなく、途端に目を逸らした銀さんは瞳にケーキのみを映すことに専念し始めたのであった。これだから大人は汚いというのだ。






(ささやかな戯れ/佐助)

音楽を聴いていたような気がする。夢の中でのことだが、確かにそうだと言える記憶はあった。しかし、私がどこにいて誰の歌を聴いていたのか、考えれば考えるほど曖昧になって、好きなバンドのライブでリズムにのっていたのか、公園にでも行って一人寂しくお気に入りのプレーヤーでCDを掛けていたのか、それさえももはや判然としない。原因は、その曲に噛み合わぬリズムが現実側で刻まれ始めたからであった。
「そろそろ起きて」
トントン、とリズム良く包丁を使う音がする。
夢から覚めかけた、現実とも夢とも言えぬ境目の空間では温度や匂いが形になる。やわらかで、ぼやぼやと纏まっては解けるような冬の吐息のイメージか、もしくは水の中で触れる泡の感触に近い。
(・・・・・あ、)
春だ、と思った。
陽ざしが目蓋を透かしている。
意味を成さないそれをほんの少しだけ抉じ開けると、隙間から台所に立つ背が見えた。電気をつけていないせいか部屋はそれほど明るくなく、窓の形をした光が彼の肩に沿うように張り付いている。その後姿をぼーっと眺めていても彼は一向に気付く様子はなかった。
コンロは二つあるうちの片方だけ使われていて、火を止めてそれ程経っていないのだろう、湯気が昇っている。まな板の上にあるのは沢庵で、彼はそれを切っているようだった。無骨で骨ばった手が驚くほど繊細に動き、包丁の右側には薄い沢庵がドミノ倒しのように倒れて重なり合っている。やがて包丁が左端まで到達すると、その指は端っこを摘みあげて口に銜えるのである。ふいに、泣きたいような笑いたいような不思議な思いに駆られた。胸に込み上げた何かが、私の目蓋をもう一度無理矢理に閉じる。しばらくして再びリズムを刻み始めた包丁の音に耳を傾けていると、去りかけていた睡魔は私の上に舞い戻ってきて、私はそんなぼんやりとした頭の中で先ほどの心情の正体を考えるのだった。
「起きてってば。もうお昼になるよ?」
いつの間にか包丁の音は止んで、声も先ほどより近くから落ちてくるよう。覚醒し始めた頭がその持ち主の名前を弾き出す。佐助だ。穏やかな日の光と声のおかげで、眠りはまどろみに変わっている。
それでも私は起き上がることはしなかった。佐助が呆れて溜息を吐くのが鮮明に聞こえても、意地のように。
そうすると、一瞬日の光が何かに遮られて、透けていた目蓋が黒くなり、次の瞬間には冷たい指が鼻に触れるのである。むに、とそのまま摘まれて、私はついに目蓋を開くしかできなくなった。
「・・・狸寝入り娘」佐助がニヤリと口元を引き上げる。
頭を持ち上げないままにぶすっとした顔で睨めば、不細工な顔、と大変失礼な評価を下された。佐助は穏やかに笑っている。
「朝ごはん食べよ」
「ん」
「ほら、早く顔洗ってきて」
もそもそと布団から這い出てベッドから降りる。佐助は私が起きたことを確認するとまた台所へと引っ込んでいった。まな板の上にはまだ沢庵が並んでいる。それだけで胸にまた体温異常の温度が競り上がってくる。これは愛しさなのだと、自覚するのが悔しく思えるほどに。
「・・・・・・佐助」
「ん?」
「おはよ」
ふわりと、湯気の中で佐助は微笑んだ。
「おそよう」
電気をつけたわけでもないのに部屋の中は急に明るくなって、私は衝動のままにその背に飛びついてやった。「もー、冷めちゃうからさっさと顔洗ってってば」耳朶を擽るほどに優しい声が降る。はいはい、などと返事をしたら、ハイは一回だなんて怒って、私がそんな佐助をかわしながら通り過ぎざまに沢庵を摘めば、おそらく佐助は怒るだろう。そのときは、佐助も摘み食いしていたことを指摘してやるのだ。他愛も無いやり取りでも、それはとても幸せなことだと思うから。



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