欲に溢れていることを世の人はさも悪いことのように囁くが、私はそうは思わなかった。木々がざわめくだけの境内、鳥居によって現世と隔たれた場所で、いつの正月であったか、他の人々と同じように熱心に願いを捧げる私の隣で、形式だけ手を合わせた白蘭の顔に嵌っていた眼球の色の無さを覚えている。望みがないことに疑問すら抱かぬ顔。それは酷く透明で、まだ石で彫られた狛犬の眼の方が心を宿していると思ったくらいだった。思えば彼が自分からあれが欲しいこれが欲しいと強請るようなことがあった例が無い。
毎年巡り来る誕生日、何が欲しいかと訊ねると、決まって彼は用意していたようにスラスラと要望を述べた。私も正一も、その通りのものをプレゼントした。彼が求めるものは入手方法も値段も妥当と呼べるそれで、ようするにそれは私たちが彼に与えられるようにと作り出された無為の欲望であり、それこそ綺麗に包装し可愛いリボンを天辺で結んだ空の箱のようなものなのだ。だというのに、白蘭はそんな包装紙を完璧な笑顔と謝礼の言葉で受け取る。胡椒を取ってと言われてそれを渡すだけような使い走りにも満たないオママゴトに、私がニコリと笑って塩を渡せば彼は躊躇いなくそれをかけて料理を口にする。欲望のない世界は空っぽのままだ。






あるとき、白蘭と海へ行った。
アメリカの工科系の大学で出会った私と正一と白蘭はそうやって、ことあるごとに何もない場所へと赴いた。三人は仲が良く、中でも白蘭と正一は顔を合わすごとに創作ゲームについて語り合うほどであったから、私は少し疎外感を感じてもいたのだけれど、敏感で察しの良い彼等は直ぐにそれに気がついて結局は皆でどこかへゆくことになる。それは別に楽しい場所じゃなくても良かった。つまらない所でも楽しかった。そういう友人であった。
「楽しそうだね」
私たちは誰かが行きたいと言い出した場所に向かう。今回は、海に行きたいと言ったのが私で、興味もないのに文句を言わなかったのが白蘭で、行きしなに車で酔って今もへばり気味なのが正一であった。私は鳴き砂でもない浜辺をさくさくと踏み歩いて、白蘭と正一はその後を並んで歩いていた。私の足跡が度々壊され、大きめの足跡がより深く刻まれていく。「二人は、つまらなさそうね」正一はぐらつくのか頭を抑えながら否定して、白蘭は何を今更と笑っていた。
季節のせいか浜辺には誰もおらず、居たような痕跡さえなく、ただいつからあるのか疑問に思うようなゴミがちらほらと転がっているだけであった。引き返しては寄せる波の、その故郷辺りは夕日に照らされて燃え上がっている。浜辺に打ち上げられたゴミは、もう二度とあそこへは行けまい。
「それにしても、どうして急に海へ行きたいなんて言いだしたんだい?」
正一は弱々しい声で、足跡も一人だけ無様な動きをしていた。
「大人になるにつれて行く機会が減った気がして」
「ああ、確かにそうだね」
よろよろしながら頷いた正一の隣で、ふいに白蘭は立ち止まった。そうして、規則性なく並んだ足跡を振り返り見る。「僕はむしろ増えた」と。ただそれだけ言うのだった。
「・・・・・・白蘭サン、そんなに海好きでしたっけ」
「むしろ子供の頃に行かなかっただけとか?」
思い思いのコメントを返す私たちとは向きあわず、白蘭は水平線へと眼をやる。そのときの私の目には、それがなんだか酷く尊くて美しい光景のように映った。
「さて問題です。僕は海に何回行ったでしょうか」
白蘭はいつもの笑い方――眼光が見えないほどに目を細める笑い方をした。私は、飽きるほど行ったの?と聞いた。
「うん、そう。何百回、何千回と行ったよ」
あっさりとクイズの解答を告げられて、正一が首を傾げる。私が知る限りでも、白蘭がどこかに足繁く通うようなことはなかったし、そんなにも海が好きなようには思えなかった。私たちの疑問を知ってか、白蘭はにこりと口元を吊り上げる。そうして、正一には見えない角度で声もなく囁くのだった。「この先で分岐する世界はいくつもあるからね」。私にはよく分からなかったので、一人で行ったの、と訊いた。いいや、君たちとしか行ったことがない。流石の正一も不思議そうな表情をしていたのを、よく覚えている。






彼の世界に自分はいない。彼は彼のいない世界にいる。
それでは生きれなかったのではないか、と私は思う。欲の無い人間は生きるという行為に意味を見出せない。だから彼は彼自身の為に必要なものを作り出さねばならなかった。それが無ければ生きられないような、それの為に生きるのだと思い込めるような唯一つの何かを、捏造せねばならなかった。
本当はそんなものを必要としていなくとも。
手に入れてなにをどうするという望みもない欲望を。
「僕さあ、他のパラレルワールドでも生きてるんだ」
そんな台詞から白蘭の馬鹿げた独白は始まった。つらつらと意味の分からない言葉の羅列を並べて、まるで少年が今まで隠していた秘密基地を明かして見せるように――私の困惑を気にも留めず彼は彼の「能力」を語ったのだった。
「・・・・・・・だから、意識を共有してるって言った方が正しいかな――ねえ、どう思う?」
「どうしてそれを私に?」
思考の間もなく滑りでた私の言葉に、白蘭はすこし驚いたようだった。当然だ、文字通り思考する時間はなく、ただ外側で世界を見聞きして考える私の殻が勝手に喋っていただけなのだから。
「へえ、信じるんだ」
「信じるというか、・・・・・・なんとなくだけど。白蘭は、」
この世界に噛み合わないような気がしていた、から。語尾に近づくにつれてどんどん視線は下がって、ついには白蘭の磨かれた靴の照り返しを眺めるに至る。居心地の悪いほどに磨かれた白いタイルはその表面の滑らかさを主張していて、ああ、私の心の表面もこんなであればなあと思った。私の心は歪だ。凹凸ばかりでざらついた表面を撫でれば、私の手の方が傷付いてしまう。そうしてたいして綺麗でもない自分の手の心配をしていると、白蘭は何を思ったか笑い出した。ついと上げた視線の先で、私よりも美しく長い指で顔を覆って至極楽しそうに声を上げている。
「ッハハ、アハハハハ!君って本当おかしい。聡いくせに馬鹿で愚鈍で、その賢しさに殺されている。面白くて憐れで可笑しくって仕方がないなあ!」
白蘭の真っ白な靴が衝撃を堪えるように一歩後ずさって、そのタイルに相応しい綺麗な靴音を奏でた。コツン。滑らかなタイルに一つ、傷がつく。
「ああ、僕がなんで君に話したか、だっけ。それはね、興味があったからだよ。君がどんな反応をするのか、それはこの世界にどういった影響を生み出すのか。いつもならそんな不利益を被ることはしないんだけど、一個ぐらいどうでもいいかなあって」
どうせこの世界は成功する見込みはないし、遊んでみようと思ったんだ。出会って数年経っても変わらない笑い方をして白蘭は、足場を探すようにくるくると歩く。くるくる、くるくる、噛み合わない踏み場で立ち位置を探すように。

その数日後、白蘭は消息を絶った。






例えば、彼が一本の道を歩いていたとする。歩いて歩いて、ようやっと十字路に差し掛かったとき、彼が取る可能性のある行動は幾パターンにもなる。立ち止まるもよし、走り出すもよし、想像は出来ないが転けるという手もある。そこで分岐する世界は莫大な数に及ぶだろう。けれど、もっと単純に考えるとして、右折するか左折するか直進するかの三パターンに世界は分岐するとする。ここで生まれたパラレルワールドは当然三つだ。ところがそこで、意識を共有している白蘭は三つとも右に曲がる選択をできる。パラレルワールドの存在意義が意味をなさないのだ。
それは自由で優れたことだろうが、私は素直にそう思えなかった。なぜなら、もしその例え通りなら――彼の世界は分岐しない。もしも右折することが死へ繋がるルートだとしたら、三つの世界全てで彼は死ぬ。「彼が死なない世界」というパラレルワールドが生まれないことになる。彼がそんな矛盾の中に生きているのだとしたら、とてもではないが幸福だろうとは言い切れなかったのだ。






三年後、白蘭は再び私の前に姿を現した。朝焼けの白い、冬の初めのことだ。
「相変わらず汚いところに住んでいるんだね」
きちんと鍵を掛けた玄関からの軽い音の後、部屋の扉が開くまでにそう時間は掛からず、数年来の旧知に出会うにはあまりにも軽すぎる切り口のコメントが投げ込まれたときにも私はまだ布団の上にいた。インターホンもなしに進入した訪問者の存在に呆けている私を見て、「ねぼすけさんだね」と彼は微笑んだ。まだ早朝と呼ぶのも躊躇う時間である。それを題材に言い返せたはずなのに、なぜだか私はその顔を見て言葉を失ってしまっていた。白蘭はよく笑うけれど、それに付く形容詞は「貼り付ける」という類しかない。なのにそれは、「零す」としか言えないような柔らかなものだったからだ。
「・・・・・・なんで来たの?」
今更、という言葉を巧妙に隠して布団から抜け出す。ぼさぼさの髪が顔にかかって鬱陶しい。
「冷たいなあ。そんなに僕が嫌い?」
「質問に質問で返さないで」
布団を脇に押しのけて上着を羽織る。にこにことしている白蘭はなにを思ったのかその傍に立って私の髪を撫で付け始めた。驚きすぎて、その手を跳ね除けるタイミングを逃した私は行き場のない手を迷わせる。その無様さも白蘭の失笑を買うくらいには役に立ったらしい。
やがて元々の距離をとるため離れた白蘭は我が物顔で私の椅子に座る。安物の椅子が急に高級感を増した。
「なんか駄目なんだよねえ」
「・・・・・・・・・・・・」
「この世界もダメなんだ。全部手に入れたはずなのに、何かが足りない。ねえ、は何がダメなんだとおもう?」
真っ白な指に嵌められた無骨な指輪が鈍く光る。私は訳の分からない質問よりも、私にとってたった一つの現実をありふれた砂粒を数えるように個数表現されたことがショックでならなかった。ズシリと重みをもって何かが胸の奥へと落ちていく。無意識に胸元を押さえた私を、彼は長い睫で覆われた瞳で眺めている。

白蘭にとって、ここにいて私と喋る白蘭に意味はない。沢山あるうちの生の一つにすぎないのだ。

無数に世界がある。その全てを生きられる。そこで、一つ一つの世界を大切に生きるなんてことができるはずもない。使い捨て。その言葉が脳に湧いた瞬間の嫌悪感を言葉にすることは私には出来そうにない。
結局のところ、たとえ私が白蘭を大切におもっていても、それは何千何億と存在する白蘭のひとかけらにすぎなくて、白蘭の積み重ねてきた人生の厚みの一割も理解できない現状は抜け出せない。そして白蘭も、何千何億という世界のなかで、このたった一つだけの世界を大切に生きてくれるなんてことは、ない。
私は急に恐ろしくなった。私がこの人生を大事に生きているこの瞬間にも、例えば白蘭が死ぬ経験を味わってみたくなって、ポロッと死んでもそれは彼にとってなんら可笑しいことではなく、他の世界で生きる彼は成る程死ぬのは面白いなあと思いながら味気ない水を飲むのかもしれない。私には幸か不幸かその光景が鮮明に思い浮かべられた。リアリティをもった白蘭の映像がゆらゆらと揺れる。

黙り込んだまま動かない私を見て、白蘭はコテンと首を傾け、どうしたの、と訊いた。私はたった今思い浮かべた想像の話をそのまました。ら、白蘭は「やっぱり君はその賢しさに駆逐されているねえ」と私を貶し嘲った。
「残念だけどそれはないよ。これは秘密なんだけど、どうやら僕は全部の世界を共有して生きているから、一箇所で死ぬと全部死んでしまうみたいでさ。・・・・・・どうして分かるかって?そういうものなんだよ」
根拠の無い空論に、けれど私はきっとその通りなのだろうと思った。微細な揺れは彼の輪郭を狂わせ、蜃気楼を前にしているような心地がする。消えてしまいそうだ。
「だけど君はそうじゃない。ここで僕が君を殺しても、僕は別の世界で君と会えるし、何も惜しくないんだ。ねぇ、僕が言おうとしてること、分かる?」
私もまた根拠のない直感に侵されかけていた。私はここで死ぬんじゃないか。白蘭に殺されるんじゃないか。なぜなら、そういうものだから。
「一個ぐらいどうでもいいかな、・・・・・・ってこと?」
「うん、正解。そういうことなんだ。君を殺すのはどういう気持ちなんだろうって、ちょっとした好奇心」
にこりと微笑んで、まるで私が一切の抵抗をしないことを知りきっているかのようにゆっくりとした行動で取り出された銃は、一ミリもぶれることなく私の心臓の直線上に固定されている。酷い冗談だと思った。白蘭にとっては何千何百と存在する私でも、私にとっての私はたった一人きりだというのに。

まったく世界ってやつはおかしい。沢山の分岐で増殖し続けて、その分だけ私も沢山の存在になって、けれどだからどうだって言うんだろう。そんなに沢山になって、だから何が出来るのかって、何も出来ないに等しい。別に、自分の力に文句があるわけじゃあなかった。多くを望んだわけでもない。ただ、自分という存在が分岐して薄っぺらくなって、ここで泣くか笑うか怒るかだけで世界は増殖して、私はまた増えて、でも少なくなって、それはなんだか気持ちが悪い。何もかも噛み合ってない。ここで私が死んでも私が生きる世界が分岐して存在するから別にどうってことはなくて、でもこの私という存在は終わって、じゃあ別の分岐で生きる私は私じゃあないのかというと私だけれど、構成物が少しずつ食い違って、ああそうか、だからこんなにも気持ちが悪いのか。じゃあ全部の私を共有できたら私はこんなにもぐらつくことは無くなるのだろうか。でも、それが出来る白蘭はいつだって気分が悪そうで、吐き気を伴いながら生きているようにも見える。どうしてなんだろう。

何本もの世界線の上で平行して人生を行って、歩いて歩いて、ようやっと辿りついた十字路で、彼は右折もできるし左折もできるし直進もできるけれど、選ばないことはできない。私がなんとなくでふらふらと歩ける道を、彼はその先を知り尽くした頭で行き先を選ばねばならない。いつだって彼はそんな広くて窮屈な道を辿っている。
「つまんないな、物分りが良すぎるのは美徳じゃないよ?死ぬのが怖くな――」
「白蘭」
彼は十字路に辿り着いて、すべての世界で右に曲がる選択をできる。
「白蘭はどうして行き飽きた海に行くの」
窓の外は真っ白だった。白が似合う彼は時々黒い服を着るけれど、それもまた着こなすのがいつも不可解でならなかったのを、そのときぼんやりと思い出していた。
それから十秒も二十秒も経ったころ、銃口はゆるゆると下がって、終いには床へと向いて、白蘭はというと、途端に表情が抜け落ちてまっさらになっていた。「興醒めした」と、ただ一言だけ。笑顔から愉悦を削ぎ落としたかの如く平らで味気の無いそれは、今までのどんな表情よりも白蘭という存在を露出させている。
「別にこの世界じゃなくていいや。面白くなさそうだし」
白く、白く染まってゆく。何千何百という私が彼に渡した空箱は、そのどれひとつとっても中身を持てなかったのかと思うと憐れでならない。白蘭の眼はガラス球のように澄んでいる。白蘭を幸せにできる世界はいったいどこにあるのだろう。
「ああ、そうだ」
窓の外は相変わらず真っ白で、そこへ向かう同じ色の白蘭を溶かし込もうとしている。けれど、たった今気が付いてみれば、部屋の扉に手を掛け振り返った彼は珍しくも黒い靴を履いていた。いつかの白い靴とは正反対の、真っ黒なブーツ。やはり彼はこの世界に溶け込めず、どこか浮いている。ふと、妙な気持ちになった。扉が閉まったとき、この空っぽな部屋は、箱は、誰が包装するのだろう。もし私が飾り付けたなら、彼はあの頃のように受け取ってくれるのだろうか。その様子は簡単に脳裏に思い浮かんで、だのに足元にはぱたぱたと水が枝垂る。こんなことは分かりきっていたと思うのに、誰もそれを指摘しないから私たちは間違い続けている。

「誕生日おめでとう、

もう、ママゴトをする歳ではないのだった。





(さようならの延長//110920)

reborn/白蘭
正一が一番初めにタイムトリップした世界線の話

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