あれはトリスが派閥に連れてこられて一年も経たない頃だったから、僕も相当幼かった。派閥に管理されている境遇の僕は、人生のほぼ全てが派閥の中にあったと言っても過言ではない。だから、僕は派閥にいる人間のなかで一際幼く、同年代の人間はトリスくらいのものだったが、そのトリスは連れてこられた当初こそ暗い瞳だったものの、いつもへらへらとして垢抜けず、どこまでも暢気な奴で、僕はあれが調律者の一族の末裔なのかと失望して、殆ど話しかけるようなことをしなかった。
しかし、トリスの方はというと、よく僕に纏わり付いてきた。いつも冷たくあしらうか怒鳴りつけるかしかしないというのに、僕の姿を見つけると真っ先に駆け寄ってくる。僕はそれが鬱陶しくてたまらなかった。トリスは授業にも真面目に取り組まず、サボるばかりして義父さんに迷惑ばかり掛けていたし、僕の読書の邪魔ばかりするし、僕が知っていることの半分も知らなくて、馬鹿で愚鈍で、義父さんはなぜこんな奴に優しくするのかと思っていた。
それである時、トリスを無視することに決めた。徹底的に意識から追い出して、ないものとして扱おう、と。丁度朝からトリスが僕の元にやってきて、「ネス、ネス」とちょろちょろ僕の周りを歩きまわったので、僕は歩きながら本に目を落とし、返事を何もしなかった。僕は本の文字を意識に取り込むでもなく眺めながら、心臓がどくどくと脈打つのを感じた。トリスはどんな反応をするだろう? しつこく言い寄ってくるだろうか? 大声を出すだろうか? いくつかの可能性を考察し、そのどれもありえそうだと結論する。なんにせよ、こういうものは根気だ。最初から上手くいくとは限らない。
僕は機を見て、ちらりとトリスの顔を盗み見た。
するとどうだろう! トリスは予想を全て裏切る反応をした。トリスの顔は凍りつき、酷く寂しそうな、傷ついた顔をしたのだ。僕は無視しようとしていたのも忘れて、トリスの顔をまじまじと見つめてしまった。先ほどまで暢気にネスネスと繰り返していたのが、どういう過程でこの様子になったのかがさっぱり想像できない。一体、何が起こったっていうんだ?
トリスは目を伏せて、今まで聞いたことのないような小さな声でぼそぼそと僕に言った。
「あのね、ラウル師範がね、・・・・・・呼んでたよ」
トリスはそれだけ言うと走ってどこかに行ってしまった。僕はなにか取り返しの付かない恐ろしいことをしてしまったような気がして、ガンガンと頭の芯が痛んだ。いつの間にか足は地面に縫い付けられて動いていない。不可解なトリスの反応が何度もリピートされる。僕の頭の中で、トリスの顔がちかちかとしていた。まるで直接太陽を見たときのように、紫色になったり赤色になったりして、脳裏にこびり付いた。



僕は物を忘れることができない。記憶をデリートすることはできても、そのデリートしたこと自体を忘れられないから、結局はそのデリートしたものが何だったのかということが頭をぐるぐると回り続けることになる。だから僕たちは人間よりも記憶の扱いに過敏だ。
人間はすぐに物を忘れる。自分の都合で簡単に、忘れる。
「おや、トリスは一緒じゃないのかい」
義父さんの部屋に入ると、義父さんが柔らかい笑顔を浮かべながら僕に言った。僕はトリスのあの表情を脳裏に貼り付けたまま、首を横に振った。
「・・・・・・走ってどこかに行きました」
「そうか」
固い声の僕を僅かに観察して、義父さんは顎に手をあてる。僕は心臓が脈打つのを意図的に無視した。熱い血液がどくどくと冷たい皮膚に当たる。
「トリスに何か言ったのかね」
義父さんの声は相変わらず柔らかくて、僕は顔に熱が溜まるのが分かった。考えすぎだろうが、義父さんが先ほどの出来事を見抜いて、僕を子供だと思っているように感じられたのだ。
「いいえ、何も言ってません」
そう、何も言っていない――反復して自分に言い聞かせる。僕は何も言っていない。トリスが勝手に傷ついただけだ――。
義父さんはそれ以上そのことについて言わなかった。僕を呼んだのは授業の話だったらしく、召喚術についてしばらく話した。話が終わった後、義父さんはついと僕の持っていた本に目をやって、苦笑した。
「随分難しい本を読んでいるね、ネスティ」
「そんなに難しくはないです。基本概念さえ理解していれば、読み込むのは・・・・・・」
「いや、そうではない。そうじゃな、ネスティは学術書ばかり読んでいるようじゃが、」
義父さんは机の脇にあった本棚に手を伸ばした。本棚は整頓されていて、沢山の召喚術に関する本が並んでいたが、それ以外の物ばかりを集めてある段があって、義父さんが手を伸ばしたのはそこだった。
「例えば、こういう小説なんかも読んではみないか」
それは深緑色の、分厚いが字もそれほど小さくない、年齢関係なく読めるような小説だった。僕はぐっと唇を噛み締めて、俯いた。
「・・・・・・それは昔に読みました」
「おお、そうじゃったか。面白かったか?」
「いえ、僕は・・・・・・」
その小説はある平凡な少年が冒険に出るというありきたりなものだった。旅の道中で沢山の仲間が出来、色々な葛藤をしながら少年は成長し、やがて世界の為になら命を掛けてもいいと思えるようになって、その為に仲間達と戦うことになる。そして少年は命を代償に世界を救い、仲間達は涙を流しながら少年を称え、物語は終わる。もう飽きるほど読んだ話だ。
「命を投げ出してまで世界を守るなんて馬鹿だ」
僕が言うと義父さんは眉尻を下げた。僕はとても申し訳ない気持ちになって、俯きがちに早口でぼそぼそと呟いた。
「そんな気持ち僕には分からない」
「ネスティ、わしは、お前やトリスのためなら、こんな老いぼれの命はすぐに投げ出してしまえるぞ」
義父さんはとても優しく笑って、僕の頭に手を載せた。それになんと言えばいいか分からず、僕は言い訳するように、「それに」と無理に言葉を付け加えた。
「それに、その、少年が自分を犠牲にするのが・・・・・・捏造された天使アルミネの伝承のようで、なんとなく不快な気持ちになってしまうんです」
目を背けると、義父さんは痛ましいものを見るような顔をして、僕の頭を撫でる。義父さんの皺のある、大きな手が僕の髪を揺らす。僕の胸の中は罪悪感で一杯になった。僕は義父さんに嘘を付いてしまった。



義父さんの部屋を出て書庫に篭っても、僕は全く本に集中できなかった。それもこれもトリスのせいで、苛立ちが募れば募るほど、トリスのあの悲しげな表情も鮮明になってしまう。僕は本を乱雑に閉じながら、なんて面倒くさいやつなんだ! と心の中で散々に罵った。あんな、いかにも傷つきましたみたいな顔ができるなんて、全くお幸せなやつだ。僕に無視されたぐらいで、何をそんな、存在を否定されたみたいな顔をするんだ。僕が味わった辛苦の半分にも及ばない人生だったくせに、全てを忘れられない僕ほど苦しんでなんかないくせに、ずっとずっと何もかも知らないままでいいようにって、義父さんにあんなに大事にされて! 大体いつも適当にあしらったってへらへらしているくせに、なんだってそんな程度のことで傷ついたりできるんだ!
いよいよ矛先は全てトリスに向いて、僕はいきり立って書庫を出た。僕に時間をとらせて探させたことを、見つけたら絶対に怒鳴りつけてやるんだと思って、そして探すのは義父さんが心配していたからだと自分に言い聞かせて、庭へと出る。どうせ授業をサボるつもりで、木の下ででも昼寝をしているんだろう。
予感が的中したというべきか、トリスは直ぐに見つかった。庭の端にある木陰で膝を抱えて座りこんでいる後姿が見えた。それで、僕はわざとドスドスと音を立てながら歩み寄った。それはもう、フリップ様の歩き方を参考にしての、いかに歩き方だけで苛立ちを表せるかの挑戦でもあった。
だが、トリスは振り返らない。結局僕は怒鳴りつけた。そうすることでしか話の切り口をもてなかった。
「一体こんなところで何をやっているんだ! まったくもって君は馬鹿でしかないな、どうせそのまま授業もサボって――」
トリスが振り返ったとき、僕は思わず息を呑んだ。トリスは僕を見て驚きに目を見開き、そのガラス玉みたいな大きな目の、下睫の上に一杯涙を溜めて泣いていたのだった。
「ネス?」
トリスが桃色の唇を僅かに動かして言う。血色の良い頬に涙がぼろぼろと落ちる。まるで幽霊でも見たような顔だな――と僕は思って、二の句も告げないままに黙り込んでしまっていた。女の子が泣く顔というのを、僕は初めて見たのだった。
僕は沢山の言いたかった罵倒をどこかに失くしてしまって、ようやっと練りだした言葉は自分でも情けないほど動揺が染み出していた。
「なんなんだ、一体。大体、どうして泣いて、」
「ネスっ!」
がばりとトリスが僕の腰に飛びつく。僕は咄嗟のことに何も判断できず、よろけて、そのまま尻餅をついた。
「な、なにをするんだ、いきなり――」
「あ、あたし、ネスにもう話しかけてもらえないかと思ったの! あの街の人たちみたいに、あたしを見て見ぬふりをして、いないものとして、話しかけても反応してくれなくて、それで、それで、うあ、うわぁあん!」
トリスがわあわあと泣く。顔は涙と鼻水まみれなのに、それを僕の胸に押し付けようとしてくるので、僕はらしくなく本気で焦って手で突っぱねた。しかしトリスも譲らず、その細い腕のどこにそんな力があったんだってくらいの勢いで張り付いてきた。
それで、僕に抱きつこうとするトリスとそれを全力で防ぐ僕という、傍から見れば滑稽だろう状態に陥った。
どうにもならない均衡状態は続いた。ギリギリと音を立てそうなくらいトリスの腕力は強く、僕は押し負けそうになった。そうしたら、急にトリスは笑い出した。びしょ濡れの顔でやっぱりへらへらと笑った。僕も遂に折れて、少しだけ笑った。とても久しぶりに笑ったような気がした。



そんなことをしているうちに授業はとっくに始まってしまっていて、僕は初めて授業をサボった。恐らくまたフリップ様に嫌味を言われることになるだろう。だが、そう悪いような気もしなかった。なんだっていい、と僕は思っていた。
トリスは軽い手つきで木に登って、太い枝に座り足を揺らしている。スカートをはいているというのに躊躇いもないのか、と僕は思ったけれど、それは言わなかった。
「そうだ、ネス、あの小説、読んだことある?」
あの緑の本、とトリスが本の大きさを手で描きながら言う。僕が「ラウル師範の持ってる本か?」と聞くと、トリスは眉間に皺を寄せて何か言いたげな顔をした。僕はトリスの前では義父さんのことをラウル師範と呼ぶ。それは、家名を継げるのはたった一人だけだから、いくら義父さんが僕とトリスを平等に扱おうと、トリスはそう呼べないのだということを気遣ってのことだった。だがそう呼ぶと、トリスは「どうして義父さんって呼ばないの?」という目で僕を見る。僕はそれをあえて無視する。僕は悔しかったのだ。僕がトリスだったなら絶対に僕を妬んだだろうに、トリスはそうではない。僕を全く妬んでおらず、恐らく僕が義父さんのことを義父さんと呼ぶと、嬉しそうに笑うのだろう。それがとても、悔しい。
「あたし、あれが大好きで何回も読んでるんだ」
トリスがぶらぶらと足を振る。僕は木の下でトリスを見上げながら、「僕も、読んだ。何度も」と言った。少し気恥ずかしい気分になった。トリスは僕の方をみて目を丸くしていた。僕がどうしたのかと聞くと、トリスは目をぱちぱちと瞬かせて、首を傾けた。
「だって、ネス、一回読んだら全部すぐ覚えちゃうじゃない。同じ本を読んでいるの、見たことないよ」
トリスがそれほど僕を見ていたということに、また僕は気恥ずかしくなって目を逸らした。
トリスはそんな僕の様子をさして気に留めることもなく、「あたしねえ」とまた話を続ける。
「あの本みたいな冒険をしてみたいんだ! 仲間を集めて、世界を救うの!」
僕が視線を逸らした先には派閥の立派な門がある。トリスが掲げた指もまた、その延長線を追うと同じものに行き着く。僕が焦がれる指先の向こう。白く荘厳な装飾の、開いたままの檻。外へは出られても、自分から舞い戻ってこなければならないと分かっている鳥かご。
「その時はネスも一緒に行こうね!」
トリスが笑う。僕は無理だよと言い掛けた口が閉じてしまう。
「・・・・・・君がその時に、僕に迷惑を掛けないような一人前の召喚師になってたらな」
僕はあの小説を何度も読んだ。文章を全部覚えているのに、目で彼らの冒険を追って、心の中で何度も旅をした。僕は本当はあの本が大好きだったのだ。なにより主人公が羨ましかった。自分の命を投げ出してまで守りたいものがあることが、とても眩しかった。僕もそんなものが欲しかった。僕にだって、こんな酷い世界を守る理由が、欲しかった!
「やった! ねえ、絶対だよ? 約束だからね!」
その時の僕に今話しかけられるなら、トリスへの口癖のように「君は馬鹿か?」と罵っただろう。だって僕は、そんなものを作ってどうするのかってことを、全く、ほんのこれっぽっちだって考えていなかったんだ!





(an indiscreet envy//121105)

summon night2/ネストリ

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