ねー、ちゃんって誰が好きなのぉ?
教室のドアに手をかけたとき、追ってきたのは甘ったるく作られた声だった。同級生のチカコとそのグループの女子だ。リップを塗りたくった唇を歪ませている。
私は一応そのグループの一員ということになっている。私の軽い女っぽいところがチカコは気に入っているらしい。チカコのグループは楽だから私も好きだ。とりあえずチカコが可愛くて流行の最先端を行く女の子だって煽てておけばそれだけでいい。頂点が馬鹿だと扱いやすくて助かる。歴代の王様が馬鹿ばっかりな理由が分かるというものだった。
ただ、私はグループの他の女子のようにチカコを崇めているわけではなかったから、時々チカコの面倒くさい攻撃を食らうこともある。チカコはグループの女子の、その時々の想い人を把握することが趣味だった。そしてそれを、まるでさも自分に人脈があるから知っている情報だと振舞うのが、彼女の社交場でのあり方なのだ。
私は黒板の横に貼り付けられた、『今月の予定表』を眺めながら少し考えた。さて、私は今誰を好きなことにしよう?
私はリップを塗っていない唇を吊り上げて、負けず劣らずの、キャラメルヌガーみたいな声を出した。
沖田総悟ぉ。



毎週木曜日の昼休みに、私と総悟はキスをする。去年までは屋上の給水塔の裏だったけれど、今年からはモンスターペアレンツのお達しで屋上は封鎖されてしまった。だから今は、屋上のドアの前の踊り場。
窓は無くて、ただ階段が途中で行き止まりになっている、みたいなところだった。埃っぽくて、電気も下の踊り場に一つきりだから、いつも薄暗い。
大体私の方が来るのが早くて、階段にべたっと座ってケータイを弄りながら総悟を待つ。駅の階段でやったらおじさんが嫌な顔をするような座り方。制服が汚くなるっておじさんたちは罵ってくるけど、女子中学生としては、制服なんてものは自分を社会に組み込んでくる布切れで、まあ朝服装を考えなくてもいいのはありがたいけど、その程度なのだ。だからおじさんたちが夢を抱く清楚な学生なんてのはもう絶滅していて、スカートは三回折らなければ根暗に分類される。膝を丸出しにするのが可愛くないことに流行が気付くまではずっとこうだ。
しばらくすると総悟がのっそりとした歩き方でやってくる。ズボンのポケットに手を突っ込んで、踵を踏んだ上履きが脱げないように、足はわずかにしか持ち上げない。だらだらと階段を登る。
踊り場まで来ると、総悟は無造作にしゃがむ。私がケータイから目を上げると、ようやく手をポケットから出した。
次の瞬間にはその手の片方で私の頭を掴み、自分に押し付けるようにしてキスをする。獣みたいなキスだ。口内をなぞり、舌を絡めあって、唾液を貪る。三十秒も四十秒もするので、お互い鼻で呼吸して、時々涎が垂れる。そうなると少し困る。制服の胸辺りにじんわりと染みが出来て、誤魔化すのが結構面倒くさい。でも総悟はそういうのにちっとも構わない。
今日の総悟はしつこい方で、キスの時間がとても長かった。息苦しくて私は何度も総悟の胸を叩いた。総悟のか私のか区別も付かないような唾液が顎を伝い、糸を引いて落ちた。セーラーの襟のすぐ横だ。でもそんなことは確認することも許されないので、私たちはただ貪るようにお互いを食べる。
やがてそれは唐突に終わって、総悟はまた気だるげにポケットに手を突っ込んで、何事もなかったかのように私の隣にべたりと座る。
「それ、何見てんの」
「チカコのホームページ」
「へー」
私の手元をちらりと見て、総悟は前髪を弄っていた。
「ほら見て、早速書かれてる。の好きな子はZ組のS・O君だってー絵文字絵文字。あの子いい加減ふらふらとしてないで身を固めた方がいいんじゃないかな、かっこわらい。大体そんなすぐ好きな人が変わるって、本当の恋を知らないんじゃないかって、チー心配だよぉ、怒ったようななんかなんかベロ出した顔文字、ぐるぐる、だって」
「口で言われても意味わかんね」
「呪文だよ呪文」
「んで、それ何」
「さっき、今は沖田総悟が好きって言ってきたんだ」
総悟はげえっと顔を歪めた。
「また俺かィ」
「しょうがないじゃん。先月は銀八センセーって言っちゃったし、その前は桂小太郎で、四月は土方君だったかな。なんかそんなで、大体一週終わったから、ふりだしに戻る」
「アンタも飽きねェなァ」
「まさか。とっくに飽きたよ」
総悟はおもむろにポケットの中身をひっくり返して、小銭を数え始めた。私はケータイを閉じて、踊り場の隅にぽいっと放った。ガツンという音がして、くるくるとケータイがコマのように回る。思ったよりも派手な音で驚いたけれど、それも一時で、すぐに総悟の小銭に興味が移った。
「一・・・・・・二・・・・・・三百四十円かぁ。駅前の喫茶店でオレンジペコーが飲める」
「はあ? 飲まねーよそんなの」
「美味しいのに」
「味の違いわかんねー」
「おこちゃま」
私が笑うと総悟はムッとして、小銭をじゃらじゃらとポケットに仕舞った。
「お前には絶対奢らねェ」
「あっ、嘘だって。私もわかんない」
下の階をドタドタと走っていく生徒たちの声が聞こえる。壁は白すぎて汚れが際立って見えた。うすぼんやりとした床は規則的に細い筋が入っていて、その隅々に灰色の汚れがこびりついている。
階段のふちの、緑っぽい滑り止め。角に溜まった粉みたいな埃。片方だけ落ちているよれよれの上履き。学校は汚い。公共物は汚される運命にある。誰のものでもないから、誰も大切にしない。大切にする理由を持ってる人がいない。校門には唾やガムが吐き捨てられ、自販機の傍のゴミ箱にはペットボトル以外も詰め込まれるし、教室の床は消しゴムカスだらけで、それを掃除する雑巾は牛乳のにおいがする。
自分のテリトリー外は総じてゴミ箱で、宇宙にゴミが捨てられるのもその一環だ。全人類の意識を集計するとゴミ箱じゃないところなんてない。そしてそれは正解だ。腐っているのは世の中じゃなくてゴミ箱の底に溜まった生ゴミ自身なんだから。
「ねえ知ってる? 紅茶の葉っぱって普通の茶葉が発酵してるだけなんだってさ」
総悟が埃のついた私のケータイを拾い上げて、ちらりと私を見る。
「腐ってんの?」
「そうそう。昔国から国へ運んでるときにたまたま腐っちゃって、それが紅茶になったんだって」
総悟が私のケータイを弄っている。先ほど放った時のか、それ以前か、塗装がはげて白くなっている部分があった。総悟はそれに気がついて、ごりごりと爪の先で塗装を剥いだ。
「なにしてんの」
「いっそ剥いだ方がマシでィ」
ごりごり、塗装が剥げていく。剥き出しになる白色は、歯とか骨みたいな濃密すぎるもので、なんだか気味が悪かった。
「・・・・・・腐った葉っぱを最初に食べたのは誰だったんだろう」
「知らね」



教室に戻るとテラシマさんが私のことを軽い女だと罵っていた。テラシマさんはそれなりに女の子っぽいグループにいる子で、確か総悟のことが好きなのだ。
「先月は銀八先生って言ってたくせに、なんなの? だらしがなくて、男にしか興味ないみたい」
私は心のメモ帳を開いて、なるほど、と納得した。どうやらテラシマさんは先月の私の設定が、「銀八先生狙い」だったことを知っているらしい。けれどそれはおかしなことだった。先ほどの総悟との会話を抜けば、私が銀八先生のことを好きだと言ったのはトモエにだけだったから。だから、「なるほど」。
メモ帳のトモエの欄にバツ印が付いた。
教室のドアを閉めて、『今月の予定表』をもう一度見る。明日は金曜日だけど月曜日の授業をするらしい。それで、次の月曜日には木曜日の授業に振り替え。だったら月曜日は月曜日のままで、明日を木曜日の授業にすればいいのに、と思った。
終わった日付には、先生が几帳面にバツをつけている。バツは、終わり。見限るときのしるし。私の心のメモ帳にも沢山刻まれている。さっきのトモエだってそう。こいつはいい子ちゃんぶっててもべらべらと友達の情報を喋るやつなんだなってこと。だからいらない。
自分の席にずるずると座りこんで、腕を枕にする。
地面に垂直な視点で窓の外を見ると、時々鳥が変な風に迂回しているように見える。
・・・・・・つまらない。
毎日がつまらない。味気ない。重要なことが何もない。くだらない人間ばっかりだし、メモ帳にもバツ印ばかりが増えていく。まるでカレンダーの終わった日付を消すみたいに、少しずつ人の名前がなくなる。
「総悟・・・・・・」
総悟とキスをしている間だけ、私は生きている。
涎を垂れ、お互いをひたすらに求め合う。それは喉が渇いて水を欲するくらいに自然で、ただ必要な物を求めているにすぎない。そこに感情のやり取りはなく、キスをするという行為の形だけが存在する。私たちは猿とか犬とかとにかくそういうものになって、唾液を交換して、抗体を少しずつ増やそうとする。



月曜日の朝、遅刻ぎりぎりに校門をくぐると銀八先生がいた。先生は私の顔を見るや否や、やたらと真剣な表情になった。
「沖田くんだけはやめておきなさい」
私はあまりに突然な忠告に吃驚して、それからその言い草に思わずくすくすと笑ってしまった。
「センセーったら、それはどこ情報なんですか?」
「え、違うの」
先生は目を丸くしてそれからぽりぽりと頬を掻いた。
「それならいいけど。あのサド王子のせいで学校にしばらく来なくなる女子生徒多いんだよね。で、なぜか担任の俺が文句言われんの。今年でもう何回目だよってくらいだから、あいつの危険性は重々考えておくように。そこんとこよろしく頼むよ」
「はぁい」
だらっと手を上げると、先生はそれをぺしりと叩いた。
やがて靴箱についたので、先生は教職員の方の靴箱へ、私は自分の靴箱へ向かった。白いはずの靴箱はもう随分とくすんでいて、汗臭い匂いがところどころから滲んでくる。私は自分の靴箱を空けて、人差し指と中指で上履きを引きずり出した。ぼとぼとと落ちた上履きは片方がひっくり返る。それを手を使わずに履いていると、すでにサンダルに履き替えた先生が廊下の先から回りこんできて、ひょいと顔をのぞかせた。
「ていうか、お前も相当だからね。男は狼なんだから、そうホイホイ気を持ってるフリしないの」
私はまたしても驚かされてしまった。
「フリって分かるんですか」
「そりゃあ、だってお前全然男に興味ないじゃん」
むしろ噂してる女子のが興味満々ってとこだよなァ、と先生は後髪を掻き上げる。
・・・・・・先生はすごい。いつの間にかいろんなことを知っている。私は嫉妬のような気持ちを覚えてしまった。私も先生みたく賢い人になりたかった。いろんなことがすっと分かる人で、馬鹿じゃなくて、人と付き合うのが上手な人。
私はその正反対みたいなものだ。分からないことだらけで、想像と外部情報で固めてそれらしいことを知っているような気になっているだけで、本当に知っていることは一つもない。
視線を落とすとリノリウムの床がてらてらと光っている。よく見ると蛍光灯の形がちゃんと映っていて、それが時々途切れながら廊下の先までずうっと続いている。
その線を辿っていけば教室に辿りつくのに、私の足は嫌だと言っていた。毎日の積み重ねが体に染み込んでいて、そこに行っても何も得られないと分かっているからこそ、反射として気だるさが滲んでしまう。
「どうした?」
先生が私の顔を覗き込んでいた。
私は誤魔化すように頭を振った。
「なんで・・・・・・そういうことってどうやって分かるんですか?」
「んー? そりゃあ、男の子に興味のある年頃の女の子がリップもつけないで登校してくるわけないでしょ」
私の唇を指差して先生が目を細める。私は無意識に手をやって、唇を撫ぜた。かさついてはいない。塗る必要がそもそもなかった。
でも、確かに私は化粧の類が嫌いだった。そしてそれが私に与えられている人物像と矛盾している。
「・・・・・・・・・・・・」
一瞬明日から塗るべきかと考えが飛ぶけど、そうまでしてイメージキャラクターを守る必要性はなくて、結局薬用リップの出番は冬だけだという結論になった。
なにもかもどうだっていいんだ、本当は。
私という人間を作ったのは私じゃない。他の人が情報から作り出したのが今の私だ。だから、本当は男の人に興味がなくても、化粧をしなくても、皆はその情報を信じているから矛盾に気づかない。
作られたイメージを守らなくたって、誰も私には気づかない。
そしてそれは私も同じだった。
私は情報に騙されたくなかった。だから私は他人を選別するために自分の秤を使おうとする。それなのに、馬鹿で他の人のことが分からないから、いつだって間違える。私には人の顔が見えてない。目も、その奥の心も、読み取ることができない。
なのに先生みたいな人は、他人の顔までちゃんと見ているんだよなあ。
考えながら、ふと先ほどのやりとりを思い返して訊ねた。
「・・・・・・それなのになんで総悟の噂は本当だと思ったんですか?」
「えっ」
先生はなぜかそこで口ごもったので、私は少し首を傾けた。
「もしかしてセンセー、屋上の鍵を隠し持ってて、時々サボってたりする?」
「・・・・・・お互い秘密にすべきことがあるようだね、ちゃん」



ねー、ちゃんって総悟くんが好きなのぉ?
今日駆け寄ってきたのはけばい系の女子とちゃらい系の男子だった。両方とも髪を染めていて、男子はワイシャツをズボンから出して、女子は皆化粧をしている。髪をせわしなく弄る爪には赤いマニキュアが塗られていた。艶やかに輝くのはとても綺麗で、私はそれを剥ぎ取ってやりたくなった。総悟みたいに、傷が付いているところに自分の爪をねじ込んで、隙間を広げてごりごりと塗装を剥いでやるのだ。そうしたら、その下には気持ち悪いくらい白い爪があるんだ。
そうだよぉ。
私は多糖類とか植物油脂に塗れた笑顔で答えた。口の端をついっと持ち上げて、歯はちらつかせるくらいで、不必要に妖艶さを気取らない。今の歳でそんなことをやったって意味が無い。
嘘吐きって思う。
誰にも言わないからって言ったトモエも、絶対に秘密って誓ったアヤも、約束だよって指切りしたサヤカも皆駄目だった。なんで皆、こんなどうでもいいことに興味深々になれるんだろう。男の人がいるからって何が楽しい。軽い女ってなに。軽いのはお前たちの口だ。A子もB子もC子も、全員に違う奴が好きだって言ったら皆が皆伝えて回る。気持ち悪い。まるで自分の周りに大きな渦があるみたい。プールの中、クラス全員で手を繋いで円を書いて歩いたら、ぐるぐる渦が出来て、いつの間にかそれに巻き込まれている。
でも本当に嘘吐きなのは私だ。
誰も好きじゃないのに嘘を言い始めたのは私なんだ。



昼休みになると、足が自然と屋上前の踊り場に向いた。子どもみたいにわざとらしい歩き方でぺたぺたと足音を立てて、階段を登る。いつものように最上段に座り込むと、お尻の下からひんやりとした冷気が伝ってきて、じわじわと肌に染みた。
立てた膝を机に見立て、腕の枕に首を持たせかける。斜めの世界。なぜだかケータイを見る気にはなれなくて、しばらくぼんやりとしていた。やがてゴム底の靴を引きずる音が聞こえてきた。きゅ、きゅ、とかすかな音が連続して聞こえる。銀八先生かなぁ、と思って顔をうずめたままでいると、足音が下の踊り場で止まった。
怪訝に思って顔を上げると、そこには驚いた様子の総悟がいた。
「オメー、なんでここにいんだ」
「・・・・・・オレンジペコーが飲みたくて」
「奢らねーって言ったろィ」
総悟がドカッと横に座る。キスをする前に座ったのは初めてだった。
「そういう総悟こそ」
「授業が木曜のだった」
「だからって木曜じゃないじゃん」
「まあなァ」
今日は風が強いのか、背後で屋上のドアががたがたと揺れた。隙間から吹き込んだ風が埃を舞わせる。総悟はそれを鬱陶しそうに払った。
「総悟」
「おー」
「つまんない」
総悟は気だるげに頬杖をついていた。
「つまんない・・・・・・」
膝の間には影が溜まっていた。腕に抱え込んだ顔は眠気からかほかほかとしていた。足の間には短いスカートの裾が垂れている。三回折ったスカートはうつむくとお腹に食い込んで、少し苦しい。紺色のハイソックスはゴムがゆるくなっていて、秒速一ミリくらいのゆっくりさでふくらはぎを滑り落ちていく。
毎日が空っぽすぎて気持ちが悪い。それは私のせいなのだけれど、時々どうしようもなく吐きたくなる。だというのに口を開けても何も出ない。ただ空気だけが咳みたいに喉を痛めつけて飛び出していく。漠然とした時間が漠然としたまま過ぎていって、何日過ごしても一日の正しい長さを覚えられない。時計は一刻一刻をきちんと刻むのに、私の意識はすぐに飛ぶ。早送りされたみたいに過ぎ去って、だけどそこには何も録画されていない。時々ちゃんと映っている箇所があっても、同じものを何回も撮っているような錯覚に落ちいる。
人生で見た中で一番中身の無かった映画よりもつまらない。
実感がない。何を食べても特に感じることがなくて、毎日ゴムを噛んでるみたい。
「毎日がつまらないから恋してるだけのくせにうるさいやつばっかりだ」
クラスで恋をしたことがないのが私と総悟だけになってしまった。
小学校六年生のときだ。
たかが小学生で何が恋だと当時の私でさえ思った。マセガキばかりでうざったいったらない。
ともかく――両想いやら片想いやら、同性愛、行き過ぎた兄妹愛からエンコーまで、種類は様々だったが、クラスメイトのほぼ全員がそういう感情を知っているらしかった。
私の知識はせいぜい少女漫画止まりだ。とはいえ、最近の少女漫画はなかなかに参考になる・・・・・・とりあえず誰かが好きで好きで仕方なくなって馬鹿になったらそれが恋ってことらしい。そういう認識でいたら、やたら恋愛相談をされるようになって、果てには頼りになるねとまで言われたのだから可笑しい。
だけど結局はその感覚を理解できないままだ。想像としてそういう現象があることを知っているだけで、私の中に無いものだと思い知らされるばかりだった。
自分ひとりだけが著しく欠落していると言われているみたいだった。皆が当然のように人生の中で感じていくものを自分だけ取り落としてしまって、それを永遠に感じられないような気がした。
総悟も同じだったかは知らない。ただ、私と総悟はその日、学校の帰り道でキスをした。唇と唇をくっつけるだけの、見よう見まねのキスはぬるくてとても気持ち悪かった。
「総悟が好きだって言ってた時期が一番簡単だった」
「なんだそれ」
「好きな人なんかいないよって言っても誰も信じてくれないから、総悟だって言うようにしてたの。なんでって聞かれないんだもん。かっこいいもんねとかなんとかで勝手に理由つけて納得してくれるから、隠れ蓑には打って付けだった」
本当は誰も好きじゃなかった。そういう風に心が動くことがなかった。だから、聞かれたら適当な人を好きって言うようになった。
そのうち、そういう情報が皆に回るようになった。
どうしてか分からなかったから、ためしにA子とB子とC子にはそれぞれ違う人が好きだって言った。誰なら信じられるのか知りたかった。好いた惚れたに巻き込まれたくなかった。でも気が付いたら私は恋多き子になってた。それがいつの間にか周知の事実になっていた。
「総悟、私に恋をさせてよ」
もう嘘をつくのも嘘をつかれるのにも飽きた。本当はなにもかもがどうだっていいんだ。ただつまらなくて仕方がない。味のない食事を食べ続けるのにはもううんざりだ。だから私の欠落を埋めてよ、総悟。
お願いだ。
「そりゃ無理な話だぜィ」
総悟が笑う気配がしたので、私は顔を上げた。
「恋愛ってーのは、確かお前の理屈では相手を馬鹿にするもんなんだろ? お前をこれ以上馬鹿にすんのは俺には荷が重すぎまさァ」
総悟はその整った顔を歪ませ、下卑た顔でげたげたと笑った。私はぼうっとそれを眺めた。だらしないワイシャツは袖がぞんざいに捲り上げられていて、右腕の方は落ちてきている。頬に当てられた指先は細くて綺麗だ。総悟の肌はとても白い。引きずって裾に埃がついているズボンの、覗く足首も骨ばっていて華奢だ。
その部品部品が完成されているのに、私はどうして総悟が好きじゃないんだろう。
薄闇の中では総悟の目元は暗くてよく見えなかった。
「要するに気持ち悪いんだろ?」
総悟がくつくつと喉を揺らす。この男は笑い方を使い分けるから性質が悪い。
「そう、気持ち悪い・・・・・・」
気持ち悪い。漠然と感じる嫌悪感。人間の動物としての本能を忌む出来損ない。
そのとき、ゴオッと強い風が吹いて、鉄扉が強く背を叩いた。私は吃驚して、揺らした肩は総悟とぶつかった。甲高い音を立てて隙間風が吹き込み、ワイシャツの袖がバタバタとはためく。総悟の髪が細かい一つ一つのきらめく糸になって流れ、総悟はそれをどうでもよさそうに抑えていた。
風が止んだ頃、総悟の顔が近くにあった。私と総悟はキスをする以外にこんなに近くで見詰め合ったことがなかったから、こそばゆくて、思わず笑ってしまった。不思議と、湧き上がるような自然な笑みだった。そうすると、なぜか総悟も目を細めた。
「キスしてやろうかィ?」
「やだ。気持ち悪い」
くすくすと笑いが漏れるのを押さえ込もうとすれば、総悟はそんなのに構うことなく私の頭に手をやる。ぐいと引き寄せられ上を向かされると、総悟の鳶色の目がはっきりと見えた。こんなに綺麗な、奥に宝石を隠し持っているようなきらめきを、私は初めて知った。
「だからすんだろィ」
その言い草がもっともらしくて、答えを与えられてしまったように思った。
ゴムを噛み続けるのに飽きた私たちは不味いものが食べたくて仕方ない。舌に残る粘着質なえぐみでしか、味覚の存在を確かめられない。きっと、そういうどうしようもないやつが、腐った茶葉を食べる。見境なしになんでも口にして、美味しくないものを探す。
私たちが生きていくのに必要だったのは愛とか恋じゃなくて気持ち悪さだった。





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