朝も昼も夜もあるけれど、時計はいらない。



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くるくると傘を回せば、残り少ない命しか持たぬ火は見る影もなく弱々しくなって、滴に移りこんでいた橙色は次第に減っていった。やがて完全に鎮火された後には、機械の発する光を吸収した雨が降りしきるだけである。それらは、赤や黄色や青色をほんの一時だけ灯して砕けてゆくのだった。きらきら、きらきら、僅かな光を暗い屋内に散らせては消える。わたしはキカイは好きだ。
(夢の中で夢を見るなんて、不思議)
壊れているのだか動いているのだかはっきりしない機械の間を縫うように歩いて、作り上げた水溜りを踏み割る。平らに見えるはずの床がいかに歪みを伴っているかが、今となっては明らか。水溜りは文字を象るように広がっている。
ずんずんと突き進んだ扉からは、真っ白な部屋へ繋がっているようすが見て取れる。いつものように空間を無視した繋がりを、違和感を感じる心など持ち合わせてはいない。そうして入った部屋は広かった。窓の外には宇宙が広がっている。黒い紙にたくさんの穴を開けて、向こうから光を透かしたような光景だ。部屋の白がその黒さを際立たせて、あまりにはっきりした境界がどことなく息苦しい。
「宇宙船・・・」
ぱたぱたと床を打つ雨のなかに、ころんと落ちる自分の声。声は、嫌いだ。どこにあるどんな音よりも中身がぐちゃぐちゃで汚いから。
わたしは傘を回す。水溜りは移動していた。部屋が動いているからである。
形の整わない水の端っこを踏みながら、追いかけるように奥へと進む。ふいにオルガンの音が聞こえた。鍵盤を叩く微かな音と、そこから漏れる音。曲というよりは音を繋げたものが反響もせずに広がっている。
「・・・・・・・・・・・」
部屋に踏み入ると、オルガンに音を奏でることを強要した人は振り返った。真っ黒で、それでいて白い人である。わたしは、雨でオルガンが壊れそうだと、そう思っていた。



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目蓋を閉じて、彼女は私を見ていた。柔らかな唇が「せんせい」と形だけで呟く。私は「窓付きさん」と言った。雨が降る部屋の中で彼女はとても小さく儚げであった。私は彼女の名前も、彼女がどのような存在であるかも、その目蓋の下にどのような色の眼があるかも知っている。そして、自分自身の存在の形も理解していた。
「いらっしゃい、窓付きさん。貴方を待っていました」
嘘だと明らかな嘘に、窓付きは微かに唇を噛んだ。雨はまだ降っている。



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傘を仕舞うと雨は止み、水溜りさえ跡形なく消えた。濡れていたはずの椅子は染み一つないものとなって、そうすると先生はそうなることを分かっていたかのように椅子を勧めてくる。わたしは心に湧き上がる、黒く醜い苛立ちと暖かで柔らかい衝動を混ぜ合わせ、しばらくの間立ちつくすしかなかった。先生は何もない部屋のどこからともなくコップを持ってきて、机に置いた。一つだった。
「・・・せんせ、い」
「はい」
「先生」
「はい、窓付きさん」
「オルガンを弾いて」
先生は微笑んだ。わたしと一切視線の合わない目を細めて、そうしてすぐに背を向けてオルガンへと音もなく歩いていった。その背が怯えに染まっていることをわたしは知っている。思わず握り締めたコップは皮肉なくらいに暖かかった。震える程力を篭められた手のせいで、白いそれの表面に波紋が広がる。中身はホットミルクであった。ただ、そのぬくもりはいつまでたっても手に浸透してはこないものだった。



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窓付きは、それからふらりと部屋を訪れるようになった。
正直なところ、私は戸惑っていた。彼女が私に何を望んでいるのかが分からなかったからだ。私は現実の私を元に窓付きが形作った私で、だから私は窓付きの望むものにはなれないのだった。それを彼女も察知しているようではある。飲み物を用意しようかと訊ねても、彼女は首を横に振る。「いいから、オルガン弾いて」床と同色の椅子は、それが立体故に出来る陰影さえなければ部屋に溶け込んで見えないのではとさえ思う。そんな椅子に、窓付きは座る。対面の椅子に私は座らない。窓付きはそれを望んでいないのだから。
「先生の曲は、いつも悲しいのね」
ポロンポロンと、人間にはけして出せない澄んだ音たち。 途中で止まりそうになる指は、曲を最後まで導くには重すぎる。



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気が付いたら、日記帳の残りは少なくなっていた。
数ページをパラパラと捲れば、以前に書いた夢の内容が特に面白くもない文で書いてある。その殆どが、夢の中の夢の話。自分でもどうしてあそこに行きたくなるのか、実のところ良く分かっていない。ただ、ふわふわして、ぐらぐらして、暖かいような、泣きたいような、一番わたしがわたしでいるような、そこにいたらわたしに近づけるような、そんな気が・・・する。
でも、日記が終わるなら、そんな夢も終わるのだろう。
傘を差すから雨が降るように、涙が出るから悲しいように、明かりをつけるから暗くなるように、そこには因果関係がある。全部それと同じ。日記を書くから夢を見る。夢を見るから、わたしは眠る。



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窓付きはそれから、いくらかの空白をあけて現れた。
いつもと変わらない、あまり動かない顔をしてただ立っている彼女に対して、私を形作る何かはなぜか足を後ろへと運ばせる。恐れが次々に浮かび上がってきて、その姿を注視するまでもなく理解させられた。
彼女は、包丁を握っている。
「窓付きさん・・・?」
入り口付近に佇んでいた窓付きは能面というには色がなさ過ぎる顔を真っ直ぐ私の方へ向け、部屋に足を踏み入れる。ぺたり、と赤い靴が軽い足音を立てる。
「エフェクトを全部集めようと思って」
「まどつき、」
「わたし、この世界の一番奥深くに行く。だから、ごめんね。先生も刺してみなきゃ」
窓付きは、私を真っ直ぐに見ていた。私の、絶対に真っ直ぐに見れない眼を、怯えきった体を、現実の私の本質どおりに創られた私を、そう構成した窓付きは見ている。
ドッと、腹部を冷たい刃が貫いた。
強い力を篭められたせいで、衝撃に二三歩後ろによろめいても、まだ刺さったままだった。夥しい量の血が溢れて、ああ、それでも痛みは感じられる。涙が眦からぼたぼたと溢れかえる。床に倒れこみながら、私は少し、嬉しかったのだった。窓付きは、私が痛みを感じるものだと思ってくれている。だから痛い。それが、どれほどに尊いことだろう。

やがて、流れた血の表面が乾燥し始めた頃、窓付きは私の顔を覗き込んだ。視界に移る白と赤のコントラストに温かみのある白が現れ、そしてそれは少しだけ眉を押し上げて驚いた様子を見せていた。
「なんだ、先生は死なないの」
その声は平坦で、しかしどこか残念そうな様子で発せられたのだった。



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「どうして先生は死なないの」
足をぶらぶらさせても先生は注意ひとつしなかった。椅子の背もたれに思いっきり体重を掛けて前を向く。先生はわたしがいるときで初めてあの椅子に座った。すらっとした体なのに僅かに猫背で、ねこじゃらしみたいな印象。
「一緒に死んでほしいのですか」
きゅっと口を引き結んで、先生は悲しそうな顔をした。わたしは黙っていた。
「貴方がそう思っている間は、私は死にません」
先生の視線は切実な願いを含んでる。わたしがお願いを告げるはずだったのに、どうしてか、変だ。先生のほうがコドモみたいにどうにもならないことばかりを望んでいる。
「・・・・・・そうなんだ」
わたしから飛び出た声は机の上の手をつけてないミルクより冷め切っていた。わたしはわたしの声が声の中で一番嫌いだった。
先生の視界の重ならない両目は泣きそうになって、半分ほどが目蓋に覆われる。
先生がなんて言おうとしたか、わたしには分かっていた。先生が否定したのは死ぬという部分ではなくて、「一緒に」というただ一語であることを。
「そっか、しんでくれないんだ」
机の上のひとつきりのミルクは誰にも必要とされないから、未来のわたしみたいに冷たくなっていく。先生はわたしを一人にするのが上手だ。



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窓付きはそれきり黙って、顔も窓へと向いた。柔らかな曲線が描く横顔は幼く眠たげで、それなのに微塵も動かない。私は現実の私のように彼女を一人にはしないで、彼女の望むすべてを叶えてあげたいのに、只一つ叶えたくないことを彼女は望んでいる。臆病な私は、××ないでください、というただ一言すらも言えない。



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会話が途切れて、しばらく経った後、先生は思いきったように顔を上げた。決心を固めたのか固めていないのか、目はめまぐるしく動き回っている。
「窓付きさん、その、どうして・・・」
「"どうして刺したのか?"」
言葉の先を受け取り代わりに喉から声を出せば、先生は少しためらった後にこくりと頷いた。へにょりと歪む眉と流れる目線に、もう数年動かしていない頬の筋肉を使ってでも笑いたくなる。この人はまだ感情をそのまま外へ出せるのか。なんと愚かでお幸せで、―――羨ましいことだろう。
わたしがとっくに失くしたものを、大切に抱えて生きているこの人はばかみたい。
「べつに先生が嫌いだとか、殺したかったわけじゃない」
感情も、怯えも、死への恐怖も、わたしが放り投げたものを見せつけるみたいに。そうして、わたしがわたしを捨てようとしても、この人はそれを拾い上げようとするのかもしれない。
「欲しいのをね、集めなきゃいけないの」
「・・・欲しいもの?」
くだらない。
わたしが望んだのはそんなことじゃなかった。
本当は、わたしがわたしを捨てる前に助けて欲しかったんだって、どうしてわからないの?
「―――を集めるの」
先生は聞こえなかったのか、口をぼんやり開けて戸惑ったように眼球をくるくる回していた。何も望んでないふりをして望みを押し付けるわたしも、ばかみたい、だなぁ。



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この世界はたった一点においてのみ不完全である。
それは住人たちにとっては明白なことであったし、彼女にとってもそうだろうと言えた。
要するに、ここには時間の概念がない。
時計はない。「一日」は存在しない。ただただ端のない空間と、茫漠とした時。日は暮れることはなく、登ることもない。佇むものなのである。それは彼女の為であった。彼女が何に急かされることもなく、この夢の中に居続けられるように。ここが限りある閉じた世界なのだと気付かぬように。そうして作られた。けれど、と思う。むしろ、その時の流れを感じさせない全てが彼女を急かし追い詰めているのではないか。ここに生まれ、ここに生きる為に存在する私たちと違って、彼女は最初から時の流れの中にいた者なのだから。
「・・・・・・・」
いま、窓付きは眠りに付いている。安らかな顔というより、表情を削いだ温度のない人形のような顔だ。そっと抱き上げれば微かに目蓋が震え、それだけが命の存在を証明する。子供らしくもない体温の低さが腕に染み渡り、微かに上気した頬は作り物めいた色味を帯びている。そのまま隣の部屋へと移動し、なるべく振動しないようにとベッドに降ろせば、窓付きの手は何かを握るような動作をした。包丁は、まだ私の胸に深々と刺さったままである。しばらくして、小さな手は空っぽのままで閉じてしまった。
「窓付きさん」
宇宙の只中にあるはずのこの部屋が夜を迎えるかの如く少しずつ暗くなってゆく。まるで、彼女の意識空間による時の流れに従うように。
漠然とした不安が込み上げて、私の心臓は外からか内からかも分からずに痛み疼き続けている。曖昧な形ながらも、私には分かっていた。彼女は閉じた夢を終わらせるに違いない、と。
「・・・・・・・・いでください」
やるせなさを全て左手を握り締めることによって押さえ込み、余った手で窓付きの頬に掛かった髪を耳に掛けてやる。

その時、前触れなく大きな衝撃が船を貫いて、部屋は傾いだ。



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周りのみんなみたいに早くから自転車を買ってもらって、乗れるようになりたかった。ポニ子みたいに綺麗なブロンドの髪がほしかった。箒にのって、人が溢れてる地上じゃなくて、広い空の中でひとりきりになってみたかった。幽霊みたいに皆に見えないようになりたかった。のっぺらぼうになって、こんな顔なくなってしまえばって思ってた。
時間がたって、ちょっとずつ大人になって、そうしたらそういうものを次第に捨てていきなさいといわれた。
わたしはわたしでなくなりたかったけれど、わたしであったものを捨てなければいけないのは悲しいと思った。そうしたら、それは、おかしいことですよって、みんなはいった。
望んだわけでもないのに時計はまわって、一日一日がただ重なっていくだけの間に、自分を変えなさいといっていた。
どうして時計がまわるだけでわたしが変わるのか、変えられるのか、分からないわたしはやっぱりおかしいんだって。

「・・・・・・・せんせい・・・・・・?」
眼が覚めると布団の中に居て、いつの間に目が覚めたのかと驚いた。けれど、それは逆で、わたしは寝てしまったらしい。この広いベッドはわたしのものじゃない。それに、部屋はぐらぐらと揺れていた。宇宙の真っ只中で地震が起きている。
「先生!」
布団を振り払ってオルガンの傍へ駆け寄る。先生はただオロオロとするばかりで、わたしの方を振り返りはしたものの途方に暮れているようだった。宇宙船はどんどん落ちていって、宇宙に上下があるのか分からないけど、下へ下へと滑っていく。
墜落するんだ。
考えたとき、心を覆ったのは不安だったのか安堵だったのか、わたしには良く分からなかった。
窓の外のたくさんの星が上へ流されて、線みたいになって、流れ星みたいだった。

やがて宇宙船はポトリと地面に落ちて、わたしは、呆けたように外を見続けている先生を放って外へでた。



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これを絶望と言わずになんというのだろう。
窓付きが行きたいと言ったその場所に宇宙船は落ちた。
窓付きの世界の最奥、彼女が唯一彼女自身の力で辿り着けない場所に。
「窓付きさん・・・」
荒れ果てた土地に降り立った窓付きが、窓の外を通り過ぎていく。残り少ない彼女の願い事を現実は、・・・否、夢は順当に消化してゆく。
どう足掻いてもここまでだった。
彼女の願いが尽きれば、この夢は終わるというのに。



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地面の中の小さな空間で彼は泣いていた。
歩くためには足りない足で立ちつくし、生きるには世界が見えすぎる大きな目を持って、ただただ泣いているのだった。
喉を塞がれたような、涙腺を焼ききられたような、この心に溢れる感情を何と言えばいいのか。
燻る機械の光と、それに照らされた彼の青色が涙に映りこんでは消えてゆく。どうして泣いているの、という質問は既に塞がれている喉からは当然出られず、けれど聞く前に聞く意義さえも霧散する。
ああ。
ああ、泣いているのはわたしなんだ。



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こんなに足が長くても私はどこにもいけなくて、人より長い腕も一番大切なものへ届かない。
出口のない宇宙船は只管に静かだった。彼女の為に閉じた箱庭は彼女だけ脱出が出来る本末転倒の代物でしかない。どこまでも静謐な入れ物には、音を奏でることを望む人もいなくなっていた。
私は今になって、あのとき窓付きが呟いた言葉がなんであったかを理解してしまった。

「未練を集めるの」

死ぬ準備はもう直ぐ終わる。口を付けられないままであったミルクは、墜落のときに全て零れてしまった。
この部屋に色彩が灯ることは、もうない。





(孤独の上に降り積もる箱庭//111008)

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