17

「だからあの時関わるなと言ったんだ!」と相変わらず感情的なサラザールが叫ぶのを、今回ばかりは殊勝に受け止めた。先日の行い――道に迷っている一年生を助け、ミネルバに出会った――せいで、以来昼間の散策に大きな支障が生じているのは事実なのだ。
今現在、とサラザールは全速力でホグワーツ校内の廊下を駆け抜けていた。それというのも、
「待ってください! あの、私、あなたの名前を知りたいだけなんです!」
同じく全速力でミネルバが追いかけてきているのだった。
「だから! あれほど! 余計な関わり合いは避けろと! 言ったんだ!」
なぜか実際に走っていないサラザールさえも息絶え絶えである。しかし、だからお前は呼吸をする必要がないだろうと、ツッコミを入れる気力はにはなかった。もうこれで、ミネルバから逃げるのは三日目。散策が上手く行かぬサラザールにとっては苛立つのも当然のことだ。
「そうは、言っても、私だって、まさかこんなに、執着される、とは、思いませんでした、ので。不可抗力です」
この馬鹿みたいに広い校内を実際に走っているは、滑るように付いてきているだけのサラザールほど叫ぶ力もなく、ただ只管に後ろへ下がった足を前に出すの繰り返しだ。レイブンクロー塔近くの西塔辺りからホグワーツ城東の二階まできているのだから、足も生まれたてのバンビになるというものである。無論それは相手にとっても同じはずなのだが、尋常とは思えぬ底力で追いすがってくるのだから、流石は未来のマクゴナガル先生というものだ。
「しかし、いい加減撒かないとまずいな・・・・・・」
鬼ごっこの始まりは、授業が早めに終わったらしい教室から一番に出てきたミネルバに遭遇したところであるので、今はこうして人通りはない廊下を駆けるだけだったが、それもこう長い時間続いては他の生徒に遭遇してしまう。だからこそ早く撒こうとサラザールの指示で何回か抜け道にも入ったのだが、これが恐ろしいことにミネルバも負けじと付いてくる。これが秀才の本気か、と若干青ざめもした。あなた、文系女子じゃありませんでしたっけ。


 




















18

「おい!」突然サラザールが鋭い声を出したので、は左隣を仰ぎ見た。
「ん。なに」
「後方の教室から生徒が出るぞ!」
どうやって感知するのか、すぐ隣を浮遊する幽霊が振り返りもせずに言った。後方というと、先ほど通り過ぎたばかりの大扉がそれだろう。どうやら事は一刻の猶予もないというところまで来てしまったらしい。流石に余裕ぶってもいられず冷や汗が背を伝った。確かには好奇心で動くし危うい状況に陥ってもある程度楽しめるが、この状況を切り抜けなければ不法侵入がばれてしまうとなれば別だ。リドルの制服を着ている為、普通にすれ違うだけなら問題はないが、こんな全速力で駆けていて、しかもミネルバに「あなた誰なんですか!」と騒がれている人間が注目を浴びないわけがない。それでは、サラザールの目的が達成できないというだけでなく、自身が魔法使いに晒し上げにされる。絶対に避けねばならぬ事態だった。
「この先の道は!」
少し語気を強めて言うと、サラザールはようやくが真面目になったとばかりに保護者面をして、それから思案しつつ答えた。
「突き当たり左が渡り廊下で、右は医務室に続く廊下だ。渡り廊下の先は魔法史の教室があるから、右に――」
「分かった」
なるべく体力を使いたくないとは短く返答する。
三百メートルほど後方からミネルバはまだを引きとめようと呼びかけている。荘厳な甲冑が廊下の両側に並び立ち、それらは窓から差し込む昼の陽光を反射して目を焼いた。
廊下はあと百メートルで突き当たりに達する。
「サラザール、ここ、二階よね」
が思いつきで訊ねると、サラザールはなんの関係があるのかと訝った。
「ああ、そうだが・・・・・・」
それがなんだというんだ、と続くだろう言葉には耳を貸さず、はスピードを落とさぬまま走る。今はサラザールに構っている余裕などない。
あと五歩で突き当たりの壁にぶつかる、というところで、は前に出した右足を床に押し付け勢いを殺した。その傾いだ体勢のまま左足を踏み出し、ほぼ直角に左折する。の左側に付いていたサラザールは、の頭がサラザールの胴体あたりに突っ込みそうになったのを慌てて避けた(どうせ当たらないのに)。そのせいで反応が遅れていたが、が渡り廊下に踏み込んだところでようやく、自分の助言に逆らったのに気がついたらしい。ハッとして鋭い声を発した。
「おい、そっちは――」
「こっち!」
制止を無視したは渡り廊下の柵に左手を突き、力強く地面を蹴った。左腕を軸にして宙で身体を反転させ、来た方角を向いた状態で左手を離す。一瞬の浮遊感の後、途端に戻ってきた重力がぐん、と身体を引っ張った。髪が上へと巻き上げられ、耳の直ぐ傍に上げた腕に絡みつく。
ふと下を見たとき、しまった、とは思った。ホグワーツはそもそも一階ごとの天井が高い。二階と言えど三階くらいの高さがあった。その上、直下は枝葉を茂らせた木があったのだ。
「ぎゃ」と短く悲鳴を上げたときにはバキバキという複数の枝がお陀仏する音が聞こえるのと、真緑の草葉が見えるだけだった。


 




















19

木をさんざ痛めつけて落ちたところはつつじの茂みで、バサバサーっと左背中から突っ込み、頭を木の幹にぶつけ、受身を取ろうとしていた左手が地面との距離感を損なって、無様に中指薬指小指の三指だけを打ち付けた。おかげで頭の芯まで激痛が走り、は腕と足に出来た大量のかすり傷を忘れることができた。
「ったあ・・・・・・」
生理的な涙を浮かべながら、バランスの掴めぬ茂みの中でもがき、ようやっとという体で身を起こす。左手をぶんぶん振っていると盛大な溜息が聞こえたので、おそらくサラザールかとは顔を上げた。
思ったとおりそれはサラザールで、整った顔の眉間に皺を寄せ、呆れ以外の何物でもないという顔をしてそこに立っていたのだが、はその半透明の白くぼやけた身体の向こうに黒髪の青年を見た。初めはリドルかと思った。しかしそれにしては全体的に短めで、深く暗い色の、すとんと落ちるような黒髪をしている。髪質は細い。グレーの目が凍てついた冬の様相を呈している。その表情まで薄く冷たく、微動だにしない。その外見通り、ネクタイは勿論スリザリン色だ。
「・・・・・・こんにちは」
はとりあえず、説教を垂れ始めたサラザールを無視して、にこやかに挨拶した。
立ち上がる途中でサラザールが「もっと胡散臭くない笑顔を作れないのか」などと言っていたが、勿論、唯一聞こえるが耳に通さないので意味はない。
そんな胡散臭くも爽やかに発してみた声に反応して、相手は胡乱げにを見上げたが、それだけだった。すぐに手元の本に視線を戻し、の存在などなかったかのように読書を始めている。
なんというか、マイペースな人間だ。は青年に興味を持った。
「というか、何を話しかけているんだ! 懲りないのか!」
今更ながらサラザールが怒鳴った。最近、心配性のお母さんみたいだなあとは思う。
だがそれも、周りに人がいるおかげで公然と無視できるからありがたい。
は捲れ上がったローブを直しがてら土を払い、ところどころほつれたり切れたりしているのを上から順に点検していった。我が物顔で使っているが、これはリドルからの借り物なのだ――結局、ローブにもにも外傷は多々あったが、魔法でどうにかなるだろうと結論付けた。相変わらず左手はじんじんと疼いているのは、振ることで紛らわせる。当然、医務室なんか使えるわけがない。
周りを見渡すと、どうやら温室の北辺りらしく、そういえば以前サラザールに「絶好の昼寝ポイントを教えろ」と迫った際にしぶしぶ教えられた場所の近辺だった。昼になると、渡り廊下部分から差し込む日差しが心地よいのだそうである。
確かに今も丁度良い気温で、木陰に吹く風も穏やかだ。
こんな風に来るつもりで聞いたわけではなかったのだが・・・・・・。
妙な因果をは溜息一つで片付け、未だ血が滲んでいるほどの怪我数箇所をハンカチで拭った。
しばらくして、不意に頭上からミネルバの戸惑う声が聞こえた。を探してまだうろついているらしい。「あの! どこですか! ええっと・・・ほ、ホグワーツナビさん!」その呼び方、なんともコメントしづらい。


 




















20

ミネルバは階下を覗き込もうと柵から身を乗り出したので、は青年が凭れる木にさっと隠れた。しばらくミネルバは目を凝らしていたが、やがて諦めて去って行った。
ようやくはほっと安堵の息をつき、身体の力を抜いたのだったが・・・・・・なぜか今度は、先ほどの青年が本から顔を上げてを凝視していたのだった。
随分睫が長い。リドルと違ったタイプの美形だ。女装をさせると面白そうだとは思った。
「お前、誰だ?」
先ほどまで微塵も興味関心を示さなかった青年が、今度は随分と攻撃的な視線である。
「私は・・・・・・」
はて私はなにかしたか?と考えてみるも、思い当たるものはない。
青年は膝の上でパタンと本を閉じた。
「私は。あなたは?」
嫌だなあ私のこと知らないの同じ寮のよしみじゃない、なんて言うと色々とボロがでそうなので、ふざけるのは控えめにしては答える。相手はがファーストネームしか語らなかったことに眉を寄せたが、ぼそりと返答をした。
「アルファードだ」
対抗してかファーストネームだけである。が、にはそれだけで充分だった。アルファードという名の黒髪といったら、思い浮かぶものなど一つしかない。
「じゃああなた、アルファード・ブラック?」
和やかに推理を披露してみる。対してお相手は「そうだが」・・・・・・特に感動はないようだ。この学校の生徒ならともかく、が名前をズバリ言い当てることがどれほど困難なことか知らないらしい。当然だが。
アルファード・ブラックといえば、シリウス・ブラックの母方の叔父で、シリウスの支援者であったはずである。どうりで顔が整っているし、考えてみればシリウスのイメージ像に似通っている部分もある。シリウスにプラス二、三歳して、諦観を加えたらこのような顔になるのではないだろうか。どことなく諦めの漂う人だ。口数が少ない人らしく、直ぐに会話が途切れてしまった上、表情筋が死んでいるのかと問いたいくらいに反応が薄い。中々に癖のある人物のようだった。
はアルファードの左隣の、柔らかな緑の上に座りこんだ。アルファードはちらりと視線を寄越しはしたが、やはり何も言わない。
「何か用か」
アルファードは本に視線を落とし端的に問う。
アルファードにしてみれば、読書を邪魔されたというだけなのだろう。しかしにとっては、昼寝場所を確保した上に面白そうな人物と交流できる、一石で不死鳥を打ち落とせるようなチャンス。逃すはずもない。
とりあえずと痛む身体の節々を休めながら、息を吐き、はアルファードを観察した。
さて、この人物は一体どのような人間なのやら――。
怪訝にこちらの様子を伺う人物への第一声は、もう決まっている。
「中々目の付け所が鋭いなと思って。知ってる? ここ、創始者も認めるほどのサボタージュスポットなんだよ」
が口にした極めて信用度の高い情報に対して、アルファードは疑り深そうな目と眉間の皺でその困惑を表し。
サラザールはというと、もう一度聞こえざる溜息をついていた。


 




















21

アルファードは次の授業が始まるころにはさっさと立ち去ってしまったので、会話という会話は発展しないままだった。もっとも、留まってくれたとてに言葉を返すようなことはなかっただろう。殆ど空気として扱われていたから、「一緒にいた」というよりは「同じ空間に存在していた」というくらいの繋がりしか生まれていない。しかし、はそれでも満足していた。なぜならアルファードはに立ち去るよう言わなかったし、好奇心からの詮索もしなかった。一緒にいる価値はなくとも、隣に座る価値はあった。今のにとって、とくに気を張り詰めなくとも良い場所で、誰とも――サラザールとも会話をしなくていい空間というのは、何にも代えがたい。
サラザールは確かにからかい甲斐もある飽きない人物だが、四六時中同じ人物と一緒にいるというのはの苦手とするところだ。おまけに小煩い。
アルファードには申し訳ないが、ここにはこれからも通うことになるだろう・・・・・・。アルファードが立ち去り再開したサラザールの小言を聞き流しながら、は上機嫌だった。
それから暫くはその場に留まり、やがて夕食の時間になったころ、たちは寮に戻ることにした。夕食の時間には皆が大広間に集まっているため、廊下に人が少ないはずだからだ。
「この隠遁生活にも慣れたものだね」
数時間前に飛び降りた廊下の真下を歩いていたとき、が言うと、サラザールは胸の上にあるヒラヒラとした服の襟を触りながら、ぶっきらぼうに言った。
「慣れて態度が大胆になるなら慣れないほうがましだ」
「残念ながら」は校舎への大扉を押し開けた。「私は最初から大胆だったつもりだよ」
サラザールはもうむっつりと押し黙ってしまっていた。
クスクスと笑いながら廊下を進むうち、ふと遠目に、温室の前に二人の人間が立っているのを見つけた。
はすぐに片方がオリオンだということに気がついた――しかし傍に立っているもう一人の女生徒の方は一体誰だろう? おそらくオリオンよりも上級生で、ローブの上からでも分かるくらいに体型がグラマラスだ。腕を組んで背筋をピンと伸ばし立っている様は気品が漂っている。見れば、そのローブもどこかしら銀糸金糸で装飾がしてあって、覗くワインレッドのヒール靴も相当高価なものだと窺えた。オリオンの態度から見ても、かなり良家のご息女だろう。オリオンは生まれのよくないものには相当冷酷な態度を取る。今のオリオンはどちらかと言えばに対する態度とよく似ていた。つまり、同等かそれ以上の相手に対する言動だった。
「ではオリオン、ご機嫌よう」
「ええ、それでは」
胸元まで垂れるパーマの黒髪をさらりと肩へ掛け、女生徒は微笑みながら立ち去った。姿が見えなくなったころ、はオリオンへと近づいた。


 




















22

「どちらさま?」
声を掛けると、オリオンは振り返った。
「・・・・・・貴方でしたか」
なんだお前か、と言いたいのだろう言葉を綺麗に言い換えてオリオンは無表情になった。といっても、女生徒と話している最中もさほど動きのなかった顔だ。目の奥に潜む冷たさだけに変化がある。
「まさかブラック家直系のご息女をご存知ないとは」
「ブラック家・・・・・・ということは、彼女が?」
は先ほど女生徒が立ち去っていった方角を再度見た。
「ヴァルブルガ・ブラック。高貴なる由緒正しき一族、ブラック家の王女ですよ」
「王女? ああ、王族なんだっけ」
自称の、と言い掛けたのを寸でのところで飲み込んで、は先ほど見たヴァルブルガについて思い返した。確かに純血の貴族という雰囲気だ。気品があり、人を無条件で平伏せられそうなほどのオーラがあった。
あの彼女が、後のブラック家にある絵画、黄ばんだヒステリー老女になるとは誰にも予想ができまい。
「オリオンの彼女なの?」
「婚約者です」
ジョークに顔色一つ変えずオリオンがばっさり言い捨てた。その言葉には躊躇がなく、カノジョという言葉について一切考えずにただ事実を述べたというものだった。そこに感情が篭らないということが、には酷く歪に見えた。
「それは――」
その時なぜだか、見たこともないシリウス・ブラックとレギュラス・ブラックのことが鮮明に脳に思い浮かんだ。シリウスとレギュラスは後姿だったが、その正面に座るオリオンは今のオリオンをより壮麗にしたような男性で、隣にはヴァルブルガが座っている。はその家庭の情景の冷たさに触れたような気持ちになった。
「そこに愛はあるの?」
まるで恋人の愛を確かめるような台詞で、は問うてしまった。
ドライアイスに触れた手を反射で引き戻すような感覚だった。は手を胸の前で押さえた。上機嫌だった気持ちが嘘のように消え去っていて、現実味のありすぎるドラマをみせられたように、漠然とした気持ちの悪さを抱いた。
オリオンからしてみれば突拍子のない、飛躍した質問にも、彼は動揺を見せない。厭わしそうにするが、それだけだ。
「ええ。彼女の血統は申し分なく、気品にも溢れている。その他魔力や思想、話し方から優れている。結婚相手としては最良でしょう」
隠す動揺がないのだと気づかないわけにはいかなかった。
これほどまでに歪んだものを抱えた家庭が問題なく機能するはずがない。否、シリウスという異端児さえいなければ問題なく機能したかもしれない。それが、逆におぞましかった。この感情をは知っている。曖昧で茫漠な悪寒。吐き気にも似た苛立ち。噛み合わないパズルを強制されて続けているような不快感。これは、嫌悪だ。は内心で毒を吐き捨てた。
しかし次の瞬間にはそれを洗い流して、好奇心だけを残すようにした。
「そう。つまらない答えね」
そしてはオリオンを論破したくなった。生徒が教師の述べる善意を屁理屈で跳ね除けるように、正しさの元に力を振りかざす――。この学校に来てからずっと感じている、魔法族全体の根底にある思想、その狭量な実体を、あざとく覆したとき、彼らに残るものはなんだろう? それを当然として生きている者たちの、当然を薙ぎ払ったとき、何をもって自らの思想を繕うのか・・・・・・。
の心には好奇心と幾許かの驕傲があった。
「ちなみにミス・ブラックとリットルさんだったら優先順位はどっちが上なの?」
「優先順位?」
「あなたにとって優れている方ということ」
はオリオンが迷わずリドルを選ぶことを確信していた。だから、彼がそのとおりに答えたとき、暗い喜びが心を過ぎった。
「何をもって比較するのか分かりませんが、あのお方より優れているものは他にありませんよ」
は醜い感情に突き動かされたせいで、背後の存在に気づかず、それを口にした。
「リットルさんが混血でも?」


 




















23

オリオンの左脇にあった甲冑に黒い影が映ったとき、初めてはリドルの存在に気がついた。
パッと振り返ったその瞬間、リドルの手がの左手を掴み上げ、抵抗する間もなく壁に縫いとめる。手首の切り傷が擦れ、壁に押し付けられた指は先ほどの打撲と相まって鈍く痛んだ。
「・・・・・・我が君」
「食事がまだだろう。オリオンは先に大広間へ行ってくれ」
「はい」
オリオンは瞼を伏せ一礼すると、こちらには目もくれずに立ち去った。はその後姿を目だけで追いながら、内心で苦虫を噛み潰していた。失敗したという胸をチリチリと焦がすような後悔の中に、しかしそれだけではない敵意が淡く生まれつつあった。それは、全く無関心な顔をしてリドルの後ろに浮かんでいるサラザールに対してのものだった。
気づいていたわね、と口内で小さく呟いて睨みつける。サラザールはの言いたいことを察しているのだろうが、声を発することはなかった。としても、何を言われたとして自分の油断が問題であったことには気づいていたから、それに対して今非難をする気はない。はどうやらいつの間にか、サラザールに対しても気を許しすぎていたようだった。
「・・・・・・リットルさん」
ぎりぎりと腕を締め付けてくるリドルは意外にも冷静で、怒りや驚きなどの情動はない。ただ暗さを増した目でを見下ろしていた。
は無意識のうちに目を逸らし、リドルの胸元を眺めていた。歪みなく美しく締められたタイ・・・・・・その色は勿論がつけているものと同じ色をしている。暗緑色と、銀糸の絡み合うヘビ。
「先ほどのはどういう意味だ?」
穏やかな声でリドルが問うた。出来の悪い生徒を嗜めるようだった。
「あなたが混血だということ?」
リドルがすうと目を細める。はぐっと腹に力を込めてなんとか微笑んだ。
「もしかしてオリオンは知らなかったのかしら。だとしたらうっかり口を滑らせてしまったわね」
リットルさんが言葉を引き出しきる前に私を殺すことはない。そう高を括りは内心で平静を取り戻した。リドルはの絶対的優位にいるからこそ、いつでも殺せるという驕りがあるはずだった。だからよほどのことがない限りは軽率にを殺したりはしない。それにプラスして、サラザールの存在もある。先ほどわざとリドルの存在に気づかないフリをしていた事実はあっても、彼はやはり何かの目的の為にを必要としている。ならばむざむざと殺させたりはしないはずだった。もっとも、どれも根拠に薄く確信には至らないものだったが。
「まるで事実として信じているようだね。どうして僕が混血と?」
リドルの口元が僅かに歪んだ。
「それは」
「開心術かい?」
は予想外のことに僅かに目を見開いたが、リドルの胸元から目を離さないまま小さく首を振った。
「違うわ」
「だろうね。僕は閉心術を怠ったことはない――君に僕の術が破れるとは思えない」
「・・・・・・」
「どうして混血と?」
リドルは静かに繰り返す。は肩を竦めた。
「まず普通に考えて、孤児になったからといってマグルの孤児院に預けられるような純血はいない。隠し子でもない限り、こぞって養子にと手を引いてくるでしょう。しかし、あなたにそれはなかった。恐らくあなたは自分が魔法使いだと知らずに生きていたはずだ。ホグワーツに入学するまでは。しかし純血主義のあなたは自分の全てを憎んでいるようには見えない。そして完全なるマグル生まれがいくらカリスマ性を持っていようとオリオンが従うはずがない。マグル生まれでは絶対にない。それも著名な純血の血が流れているのは確かでしょう。そうでなければ純血主義を統率することはできないから。まあ、オリオンがもう片方の血筋について知っていたか知らないかはわからないけど、純血の血統であることは流石に確認しているだろうし、だからこそ忠誠も誓ってるんでしょ・・・・・・そこから総合的に考えると、混血、それもかなり有名な血筋の魔法使いとのものだと思われる。・・・・・・なにか間違っていたかしら」
咄嗟に組み上げた理屈は、いくつかの小さな穴はあったものの、それなりの形をしていた。しかしだからこそ、その穴が存在する理由はがそこに思い至らなかったからだと判断したのだろう、リドルは少し手の力を緩めた。
「なるほど。それで?」
「・・・・・・それで?」
リドルは反対の手でぐいとの顎を持ち上げた。
「君は僕に何を隠そうとしているんだい?」


 




















24

は咄嗟に空いている右手でリドルの手を払いのけた。リドルはさして憤りはしなかったが、冷たく言い捨てた。
「僕から目を逸らすな」
視線を再び胸元へ落とそうとしていたのを制されて、は一寸躊躇った。その隙を突かれ、の身体はさらに壁に押し付けられ、もはやリドルを見上げないわけにはいかなくなってしまった。
腕の打撲には、相変わらず鈍い痛みが走っている。
リドルは冷たい声で言った。
「君は出会った時から僕となるべく目を合わさないようにしていた――注意深く、あまりに自然になされていたが、ここに来て確信したよ。僕以外の人間と話す時、君はそこまで細心の注意を払ってはいない。なら、僕にそうする訳は、開心術を恐れていたからだ。君には僕に知られたくない何かがある。そうだな?」
は唇を噛み締め、ゆっくりと視線を上げた。いくらか高い位置にあるリドルの端整な顔には影が掛かっている。風が全くないため、髪の艶の位置もそのままに、絵画のように動かない。リドルの背後にある温室から斜光が注ぎ込んでいる。虫食いのようにほころびのある木陰がリドルの頭上に掛かっていた。
蝋のように色のない肌、その輪郭は光の色にそのまま染められ、橙色を帯びている。その真ん中にある、一切光の差さない暗い瞳が何かの鉱石のよう。
は閉心術を試みようと、心にある要素を捨て去り無に成りきろうとしたが、魔力のもたない者が付け焼刃で抵抗することの無意味さは分かりきっている。はもう諦めに充たされていた。
にはリドルに知られたくないことが二つある。一つは自分がマグルであるということ。この事実を知られればは殺される、これは明らかなことだった。だが、開心術は対象の記憶を映像のように見ることの出来る術であり、そこからがマグルだという明確な情報を読み取られる可能性は低い。血筋は可視化できないからだ。自分がマグルだと言ったことはあるが、その記憶を読まれたとしても嘘だったと弁明する余地がある。疑惑は持たれるだろうが、即決で殺されることにはならないだろう。
だからが懸念しているのはもう一つのほう、ハリーポッターという本に記された世界のことだった。しかしこれも、知られるべきでないと思ってはいるものの、命を危険にさらしてまでリドルに抵抗する価値があるとは、には思えない。仮にこの情報が原因で未来の誰かが死ぬようなことになっても、言ってしまえば直接的にに関わる要因ではない。
抵抗をやめたはリドルの目を初めてまともに見た。リドルは未だ分霊器を作っていないため、目の色は正常で赤みを帯びてはいない。塗りつぶしたように黒く、その奥に闇を感じさせる濡れた色だった。はそれを美しいと思った。
「私のことを知りたいの」
声は透明だった。機械が声帯を使ったかのようで、指示音声に近い。の瞳にはリドルの瞳が映りこんでいた。
リドルは答えずにの瞳の奥を覗き込んだ。には、リドルの目に引き込まれるような錯覚が感じられた。
ああ、見られているんだ。そう思うとの手には無意識の力が篭った。
やがて、夕日が一際濃い色になった。血のような黄昏だった。
の目は錯覚のせいで、一瞬無機物のようになっていた。ゆっくり意識を戻し、そして、揺らぐ視界の向こうにいるリドルを見る。夕日とリドルの輪郭はひどく曖昧になっていた。
リドルは最初、義務的に映画を見ているような能面だったが、その顔には徐々に困惑が滲んだ。
「なんだ? これは・・・・・・」
動揺を露にしたリドルは、まるで得体の知れないものと出会ったかのような様子だった。は、ついにリドルが彼の未来を知ってしまったことを思い、そっと眼を伏せた。
の強く握り締められた手が真っ白になっていたのを、サラザールだけが気づいていた。


 

















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