25

よろけるように一歩後ずさったリドルは、の拘束を緩めてしまったことに気づき、それを押さえ直した。しかし、それでも表情から動揺は消えていなかった。
リドルはもう一度じっとを値踏みするように見、呟くように言った。
「君は・・・・・・何者なんだ?」
は挑戦的にリドルを見上げた。
「それを知ったんでしょ?」
の声には自虐の色も混ざっていた。リドルはそれに挑発されたようにを鋭く睨みつけた。
「答えろ。何者なんだ」
は困惑した。リドルには、不可解なものを見たという混乱と、なぜか苛立ちがあった。リドルがそうも憤るようなものだったろうか? はリドルが自身の最後――ハリー・ポッターという少年に討たれるシーンを見たのかとも思ったが、今のリドルからは想像できないヴォルデモートの姿を全くそのまま受け入れたにしては、開心術を行う時間があまりにも短すぎた気がした。そもそもリドルはどこまでを見たのだろうか。という名の人間が生きてきた莫大な時間のどこまでを・・・・・・。しかし、魔法での体感時間と現実の時間が一致するとは限らない。はリドルを見つめ返した。
「私は、ただ知るべきでないことを少し知っているだけの、普通の人間だよ」
これは、リドルがをマグルだと感づいたか知るための、の探りいれだった。少しでもがマグルではないかという疑惑を持ったのなら、「普通の人間」という単語をマグルのことだと思い、嫌悪感を発するはずだと思ったからだ。
果たしてリドルは、の不明瞭な回答にこそ苛立ちは感じているようだったが、最後に過剰な反応を示すこともなかった。は内心安堵し、やはり自分の記憶の全てを見られたわけではないのだと確認した。
リドルはまだから手を離さなかった。払いのけようとすればできるほどの力で、の左手は壁に押さえつけられている。痛みで麻痺してきた指先は、石の壁のざらざらとした感触も鈍く痺れるようにしか感じ取っていない。
そのとき、リドルはとても真剣な顔をした。術の行使ではなく、ただ真っ直ぐにの瞳を射抜いて口を開いた。
「君は、僕の敵か?」
「いいえ」
澱みなく答えたことに自分で驚いた。はリドルに興味を持ってはいても、その人間性がいかに劣悪かを理解している。リドルを良しと思ったことはない。リドルの敵に回ろうと思わなくとも、そこに迷いはある。であるのに、言葉は用意してあったかのように出た。
「私はあなたの味方にはならない、けれど敵ではない」
「証拠を示せる?」
「いいえ」
「でも本当だと言うんだね?」
ただの保身だろうか――それとも。それとも私は、リドルの敵じゃないと本当に言い切るつもりなのか。
は論理的でない自身の行動に対しての不快感から、まるで今まで言った言葉をひっくりかえそうとするように、またいつもの不敵な言い方をした。
「私は本当のことしか言わないよ」
リドルは呆れて、敵意を削がれたように肩の力を抜いた。
「・・・・・・つまり嘘ってことか」
「歪んだ取り方は良くない」
は胸に何かがつっかえたような気持ちだった。私はあなたの味方にはならない、けれど・・・・・・。その先をどうして、前文の対照にできなかったんだろう。けれど敵には「ならない」。私はそう言うべきだった。なのにどうしてそう言えなかったんだろう?
まるで未来に言及することを恐れるように。
「本当のことだよ。私たちに敵も味方もない。だって私たちは他人、でしょ?」
いつかリドルの敵になる、そういう可能性を私はなぜ懸念したのだろう。は心を捻じ伏せるようにしてリドルに右手を伸ばした。指先がローブをかすめ、リドルのタイをそっと抑え付ける。
「他人がどうであろうと関係ないはずだ。あなたはただ狡猾に、」
愚直に、
「・・・・・・進むしかないんだから」


 




















26


柔らかな声でリドルはの名を呼んだ。自分のタイを抑えるの手を、左手で包み込む。その様子は一変して穏やかで、労わるようだった。
拘束していた右手首も、まるで今まで割れ物を触るようにしていたといわんばかりに優しい手つきで引き寄せると、袖口から覗いている切り傷と打撲の跡を痛ましげに見る。
「血が滲んでいる。他にもいくつか傷があるな。何をしていたんだい?」
は怖気が立つような思いで唾を飲み込んだ。
「冒険を少々」
「・・・・・・グリフィンドールの連中じゃないんだから、危険なことは程ほどにね」
袖をするすると捲り上げると、リドルは怪我の具合を見るように肌をなぞったが、やがて溜息を付いた。
「僕の杖は治癒に向いていない」
まるで治せないことを悔いるような言葉に、は耳を疑った。
「別に治してくれなくていいわよ。後でローブさえ修復してくれたら」
気持ち悪いんだけど、と言いそうになる口を閉じ、はリドルから顔を背けた。温室のガラスの向こうで、夕日が穏やかな暗い色に変わりつつあった。天辺のほうでは、生い茂る枝葉の間から薄紫色が覗いている。風が出てきたのか、木々がざわめいていた。
「それより、夕食に間に合わないんじゃない?」
が多少ぶっきらぼうな口調で言うと、リドルはさして気にする素振りも見せずに頷いた。
「そうだね。じゃあ僕はそろそろ行くよ」
「ええ、行ってらっしゃい」

手を組んで壁にもたれかかるに、リドルは明らかに演技と分かる優等生顔で笑い掛けた。
「もう僕から眼を逸らす必要はないだろう?」
「・・・・・・そうね。ただ、あなたの笑顔があまりに眩しくて」
「ははっ」
は苦々しくリドルの爽やかな笑顔を見ていた。
「やはり君は変わってる。・・・・・・あの約束をしたことが悔やまれるくらいだ。君が僕の味方になってくれたらいいのに」
リドルはそれだけ言うと、背を向け大広間へと向かった。こつこつと静かな足音が廊下全体に反響する。やがてリドルの足音は途絶えて、辺りは不気味なほどにしんと静まり返った。
今の今まで身動き一つしなかったサラザールがようやくを見る。壁に背を預け頭を垂れたまま動かないは、固く組んだ腕を音がしそうなくらいに強く握り締めていた。サラザールは何かを言おうとして躊躇ったようだった。
は、ぼんやりと虚空を眺めた。
そして急に背を浮かせたかと思うと、傍にあった甲冑を蹴り倒した。
激しい音を立てて倒れた甲冑は、床にぶつかり関節からバラバラになる。兜は1メートルほどごろごろと転がって、温室の扉の前で止まった。くったりと床に伏した胴体を踏みつけ、はもう一度それを蹴り飛ばした。
「な・・・・・・」
「くそったれ! ああ、もう、なんなの! 最悪だわ!」
突然のの叫びにサラザールは驚き眼を見開いた。


 




















27

は内心歯噛みした――仮にの情報が原因で未来の誰かが死ぬようなことになっても、自分に直接的に関わることはない――その先ほどの自らの見解にすら吐き気がした。それは確かにそうだ。しかし気持ちの問題として、それは胸糞が悪くなる結果だったし、飯が不味くなるだろうことは確実だった。いま生きながらえているからと喜べるほどは楽観主義ではない。
リドルの見た記憶が些末なものだった可能性を、気休めに言い聞かせることさえ、には不可能だった。リドルが開心術中に戸惑いを見せたということが、の「誰も知るはずのない情報」を見られた証拠だ。そして知られたものがどの部分だったかを知る術がこちらに無い以上、誤魔化すことは不可能に近い。魔法が使えればリドルの記憶を消すこともできように、にはその力がなかった。
何もかもに力が及ばない。
はキッとサラザールを睨みつけると、金色に輝く甲冑の腕をサラザールに向かってぶん投げた。
「なんてことしてくれたんだこの馬鹿野郎! 幽霊の癖に生きてるやつの邪魔しないでよ!」
サラザールはただ黙している。空間が広すぎて声は反響せず、石造り独特の遺跡のような静けさの中に、けたたましい金属音だけが煩く鳴った。
「あのね、私はあなたと違って無力に慣れているし、絶対的に力が及ばないものなんていくらでも知ってる! でも、でもね、慣れていることと、平気だということは違う! 魔法の使えない者の気持ちが、魔法の使える者に分かる!? ただ力に圧倒されて振り回されるしかない、弱い存在の気持ちが、あなたに、分かるっていうの・・・・・・!」
サラザールの胴を通り抜け床に落ちた腕は、力なく垂れていた。は燃え上がるような悔しさが胸に満ちるのを感じた。
「大方あなたは私の弱みでも握ろうとしたんでしょ? それとも私を危機に陥れたかった? それを救って恩でも売りたかった? 利用する手立てが欲しかった? 生憎と、私はいつだって弱者だし何もできない。今の今まで、これだけ近くにいて、そんなことも気づかなかった?」
は吐き捨てると甲冑から眼を背け、スリザリン寮への道を歩き出した。その歩き方は毅然としていて、足音は大きい。
は怒っている。その、素直で激しい情動をサラザールは初めて見、戸惑っていた。
サラザールには、がリドルに何を見られたのかも、そしてが何を知られたくなかったのかも分からない。だからこそ、がそれほどまでに憤るようなことをしたという自覚がなかった分、大きな驚きを持って現状を見ていた。
サラザールは言葉を失って立ち尽くした。しかしは途中で立ち止まって振り返ると、サラザールをじっと見た。はサラザールに付いて来いと言っているのだった。サラザールは躊躇ったが、しばらくして諦めの息を吐き、するすると床を滑るようにしてに続いた。
「そこまで憤っているのに、なぜお前は俺を待つんだ」
サラザールは固い表情のままぼそりと言った。は歩みを止めず、ちらりとサラザールを見やり、すぐに視線を戻した。
「今のは八つ当たりよ。私を謀った代金と思って」
さらりとが言う。サラザールは言うべき言葉を見つけられず、むっつりと押し黙るしかなかった。はもう怒りを表面から消していて、サラザールには何を思っているのか分からない。
は早足に歩きながら、さきほどのリドルの態度を思い出していた。一変して柔らかくなった表情。気遣うような言葉。そしてわざとらしい演技――もう僕から眼を逸らす必要はないだろう?――あれはを殺さなかったのは気まぐれではないと言っていた。僕から眼を逸らすな。記憶を全て明け渡せ。そう言っているようにには思えた。
おそらく、リドルのに対しての意識は、好奇心を越えた。好奇心を越え――有用性のある道具を見つけた喜びに。
このリドルの意識の変化は、にとっては大きな損害だった。表立った関係は変化していなくとも、そこには徐々に違いが生まれてくる。
は今までリドルに必要とされていなかったからこそ、その支配力に従わされることはなかった。しかしこれからは違うのだ。今までのようにはいられない。いざとなれば、リドルはそれこそ狡猾にを従わせようとするだろう。それがにとっては憂鬱だったし、そして悲しかった。悲しかったからこそ、自分が今までの位置を気に入っていたことを自覚せざるを得なかった。


 




















28

布団からそっと抜け出すと室内は全くの暗闇だった。一寸先以外は闇という中、は布団に足を取られないように慎重に歩いた。部屋は持ち主が神経質なため、整理整頓されていて障害物は少ない。注意すれば躓く心配はなかった。
は寮部屋の、オリオンの区画の方に布団を敷かせてもらっている。右手の先にはオリオンのベットがあって、ドアは比較的近い正面にある。気づかれないように部屋から出るのは容易だった。
談話室では既に暖炉の火が消えていて、人の気配はない。それもそのはずで、今は深夜の3時を越えていた。石造りの細長い部屋は、暗闇の中で見ると地下牢そのものだった。天井から釣り下がる鎖やランプが薄明かりの中でかすかに影を見せている。
が扉を押し開け廊下に出たとき、壁からするっと白い透き通った幽霊が現れた。サラザールだった。
「こんな時間にどこへ行く?」
「ああ、やっぱり気づいちゃった?」
「当然だろう。俺はお前に憑いているのだから」
歩き出したにサラザールは続く。は声が反響するのを警戒して小声で答えた。
「別に・・・・・・ただの気晴らしの散歩だよ」
石畳では、気を配っても足音が立つ。はしばらくはゆっくりと歩いていたが、やがてまどろっこしくなり、靴を脱いで裸足で歩いた。石の冷たさと湿気がの足の裏にじんわりと貼り付く。それは少し心地よくもあった。
は無心にひたひたと歩いた。
暗闇に慣れてきた目でも地下は薄暗く、靴を持っていないほうの手は常に壁に触れている。かすかなカビの臭いが稀に鼻をかすめた。
地階へ上がるとようやく警戒を少し解き、はサラザールに話しかけた。
「この先に面白い部屋はある?」
「・・・・・・こっちだ」
サラザールは珍しく文句を言わなかった。は靴を履きなおすか迷って、結局裸足のままサラザールに付いていった。
「夕方はごめんね」
「・・・・・・なんだ、気持ち悪い」
「気持ち悪いって。私は謝罪くらいは普通にする人間だけど」はゆっくりと言葉を続けた。「八つ当たりは八つ当たりなんだけど、考えてみればそれも的を射ていなかったなあって思って・・・・・・」
「そうか」サラザールは肯定せず相槌のようなものを打った。
はじっとサラザールを見た。白く透けて、色の無い身体。生前どんな髪色をしていたのかも、どういう影を作っていたかも分からない。はこの幽霊のことを、殆ど何も知らない。
「今のサラザールは魔法を使えないのよね」
「ああ」
「そうだよね・・・・・・サラザールも無力を知っているんだ」
階段を上り、渡り廊下を進む。植物が絡み合ったような模様の格子窓の向こうに、無数の星が瞬く夜空があった。
は余所見をしながらぽつぽつと話し始めた。
「排他思想を肯定するわけじゃないけど、マグルが頑なに魔法族を否定する気持ち、分かるよ。自分より圧倒的に優れている者がいるなんて知りたくないし信じたくない。自分が淘汰される側だと認めたくないんだ。魔法使いがいることを知ってしまったら、魔法を使えない自分は一体なんなんだろうって、思ってしまう」
サラザールは塔の内部にある螺旋階段に足を掛けた。は余所見をやめ、階段を上り始める。くるくると細く円を描いてたちは進む。
「それでも魔法使いの存在を認めなければならなくなったら・・・・・・生まれるのは恐怖と嫉妬だ。力あるものに力がないからと支配されるのが怖い。もしも水槽の中に沢山の蜘蛛が閉じ込められたなら、その中にいる一匹の毒蜘蛛を真っ先に殺したくなるのが普通の蜘蛛だ。それが無力だ」
「お前は俺が怖いのか?」
「怖いよ。そして同時にとても羨ましいと思う。目は見えないより見えたほうがいい。魔法使いの存在を知ったとき、普通の人間は、魔法使いに生まれたかったと思わないでいられるだろうか。自分の力がどうしても及ばないとき、魔法が使えたらと思うその逃げ道が、本当に存在すると知ってしまったなら、どうやって自分を慰めたらいいんだろう。選べるなら、私は魔法使いになりたかった。魔法使いに生まれてみたかったよ」
螺旋階段の途中でサラザールは立ち止まった。そして、壁に掛かった燭台を回すようにに言う。は背伸びをしてそれを回した。
やがて壁がまるでゴムのように柔らかく湾曲し、人一人通れるくらいの隙間ができた。


 




















29

サラザールはその通路を通る前にを振り返った。
「どうしてそんなことを俺に言うんだ」
あからさまな仏頂面だった。やはり彼は伝説通りマグルを憎んでいるのだ――そしてそれを憎む理由は、魔女狩りなのだろうか。サラザールが生きた時代、イングランドが成立し間もない頃、中世以前の封建社会であったそこは、おそらくまだ自然的な世界で、宗教も統一されていない。魔法使いや魔女は古くから存在し、まだ今のように隠れ里で暮らすようにはせず、人々の中にあったのだろう。しかし徐々にそれらは異端とされ、差別の憂き目に遭い始める・・・・・・。16世紀を過ぎればそれが激化して魔女狩りとなるのだろう。それも、彼は幽霊として存在し目の当たりにしたはずだ。であるなら、こんな話を聞かされて心中穏やかなはずがない。
私と行動を共にしているだけでも充分譲歩しているのだろうな、とは思い、苦笑するしかなかった。
「足元が悪いから気をつけろ」
サラザールがすうっと通路の中に消える。も階段の手すりに足を掛けるとその中にするりと入り込んだ。
暗い通路は短かった。すでに入り口から出口が見えている。はサラザールの後ろに続きながら、そっと呟いた。
「サラザールは私が嫌いなんだね」
サラザールはバッと振り返った。その顔は驚きに染められていて、珍しく眉間の皺が取れていたくらいだった。
「なぜ・・・・・・」
戸惑ったように呟くのを、は思わず笑ってしまった。
「それも、私と馴れ合っているように見せかける演技なの? 思ったよりも随分上手だ」
「・・・・・・そうだ。俺はお前を好いてなんかいない。当然だろう。だが、何を急に・・・・・・」
「いっそ憎んでいるとまで言い切ってもいいよ?」
サラザールは鬱陶しそうにふいと顔を背けた。
「なんなんださっきから。また八つ当たりの続きか?」
「サラザール・スリザリンはマグルが大嫌い」
の言葉に、通路を抜けようとしていたサラザールはぴたりと動きを止める。振り返らないままじっと佇むサラザールの、その中を通ってまで部屋に抜けたくはなかったので、も立ち止まったままだった。
「迫害されていただとか推測もされるけれど、他に理由があるのかどうか。ホグワーツが建てられた理由はそれらの差別や排斥行為から子ども達を守るため、という解釈は根拠があったのだっけ・・・・・・結局のところ、魔法界の暗黒時代に生まれたんだから、マグルを憎むのは当然の考え方でもあったんだろうね。マグルなんか死ねばいいと思ってるしマグル生まれも根絶やしにしたいレベルなのかなあ。それでゴドリック・グリフィンドールと決別したって言うし。あなたが純血主義の発端と言っても言いすぎじゃないよね。それでいて私の傍にいるのは、あなたの目的のため? あなたを見ることができるのが私しかいなかったから? 目的の為なら手段を・・・・・・嫌いな相手に友好的な態度をとることも辞さないってこと? さすが源流スリザリン。そういう潔さは嫌いじゃないな――」
首を回したサラザールの横顔、その瞳には燃え上がるような憎悪があった。目だけでを射殺そうとするように、敵意一色をに向け、その手が透き通っていないなら首を絞めていただろうというくらいだった。
はこれだけの憎悪が隠されていたのだと思うとぞっとしたが、手に持った靴を握り締めることでそれを紛らわせた。
「ああ、本当にそうなのか」寂しげには呟いた。「ただの勘だったのに」
それからサラザールの横顔を浮かび上がらせる、夜独特の空気中に漂う光を見た。すうっと通った鼻立ちの、そしてその下に続く唇の先、顎へと続く曲線までもが、絵に描いたような美しさだった。死神みたいだとは思った。
「魔法が使えたなら、今あなたは私を殺してたかもしれないね」
「殺してほしいのか?」
「まさか」
「じゃあ何を目的に俺を挑発する?」
「・・・・・・本当のことが聞きたかった」
の声は切望するようだった。その感情の篭った声の違和感は大きく、は他人の声を聞いている感覚でそれを聞いていた。
「いや、違うか。あなたが私を嫌うのはマグルだからじゃなくて、私がうざいからだって言ってほしかっただけだ」
辺りは夜の静けさに包まれていた。壁の欠片が散らばっているのか、足元は粉っぽい。小石の鋭いものがチクチクと足裏を刺激している。風が後ろから吹き付け、隙間を通って何度か高い音を立てた。やがてサラザールがぽつりと言った。
「俺はお前が嫌いだ」
サラザールの答えは端的だった。憎悪のどろどろした部分だけを無理矢理排除したもので、まるで人参を嫌う子どものように、理由も要因も感じさせないむき出しの嫌悪感そのものだった。
マグルだからなのか、人間として嫌いなのか、相性が悪いのか。何一つ述べずにサラザールは背を向ける。
は「人参もきっとあなたのことが嫌いさ」と呟いた。


 




















30

サラザールが室内に消えたのを、は追った。壁の亀裂は細く狭い。は飛び出た壁面を身を捻って避け、室内に降り立った。
が石畳に足を下ろすと、その背後で壁の亀裂はゴムが収縮するように閉じ、やがて跡形もなく消えた。だが、がそれを目にすることはなかった。全く別のものに目を奪われていたからだった。
「これは・・・・・・」
そこは遺跡と呼ぶのが相応しいほどの内装だった。ちょっとしたホールほどの広さがある部屋は、床も壁も一面に白い石を隙間なく組んだもので、表面が所々朽ちている。天井は高く、四本の大きな柱に支えられており、はるか頭上に大きな窓があった。丁度そこから月明かりが降り注ぎ、室内を淡く照らしている。
その静謐で静かな部屋の中心に、ぽつりと置かれているものがあった。
全体が水晶のように透明度の高いガラスで出来ているそれは、三本の脚に支えられている。前面には鍵盤があり、その上の譜面台の向こうでは、独特のなだらかな曲線を描くフォルムの大屋根が開かれ、中の弦やチューニングピンがキラキラと蜘蛛の糸のように輝いていた。
「ガラスで出来たピアノ・・・・・・?」
「ああ。魔法界の職人が作った一品物だ。そこに名が刻んであるだろう」
サラザールが指差した場所は、普通ならブランドマークが入れられる部位だった。崩れた筆記体であったのと、室内が暗いことからよくは見とれなかったが、確かに名が刻んである。は鍵盤をしげしげと眺めた。内部が薄っすらと透けている。アンティークと呼ぶには幻想的すぎるくらいだった。
「サラザールに連れてこられたにしては、趣味の良い部屋ね」
「どういう意味だ、それは」
「いやー、拷問道具ずらりな部屋とかだったらどうしようと」
「お前の俺に対するイメージはなんなんだ・・・・・・」
「・・・・・・根暗な陰険野郎?」
サラザールが大きく溜息を付いたので、はからからと笑った。実際はこの部屋を一目で気に入っていた。人の手では到底作り出せないような大胆で神秘的な魔法界の建造物が、は好きだった。
ゆっくりと浮遊したサラザールはピアノの横に音もなく立った。もそれに続き、ピアノの正面に回り込む。椅子もガラス製で正面に置いてあったが、あまりに繊細な細工で座るのを躊躇い、は立ったままそっと鍵盤に触れた。シの音が静かに部屋の中に反響する。澄んだ音はやがて吸い込まれるように消えて、静けさが戻った。
は顎に手を当てた。
「ピアノ・・・・・・ピアノか。私も例によって例の如く『ねこふんじゃった』くらいしか弾けないからなあ」
「『ねこふんじゃった』とはなんだ?」
「ああ、知らないか。童謡というべきなのかなんなのか・・・・・・ねこふんじゃったーねこふんじゃったーってずっと歌ってる歌」
「なんだそのふざけた曲は・・・・・・」
「ふざけてるくらいが耳に残って覚えやすいんだよ」
童謡について真面目に批評するサラザールは可笑しかった。は小さな声で歌いながら黒くない黒鍵を叩いた。
「ねこふんじゃったーねこふんじゃったーねこふんずけちゃったらしんじゃったー」
「死んだのか」
「いや、うろ覚え。でもなんかお空に飛んじゃうフレーズはあったような」
「童謡なのにか?」
「以外とそういうのは多いよ。シャボン玉とか・・・・・・」
ポロンポロンとピアノの音が零れるように点々と紡がれる。サラザールはしばらくの指先を眺めていたが、やがて呟くように言った。
「弾けるんだな」
「え?」
「ピアノを弾けるんだな」
は手を止め、小さく唸った。
「弾けるってほどじゃないな。小さい頃に少しは弾いていたけど」
「・・・・・・そう、か」
「サラザールは?」はサラザールに目を移した。「サラザールは弾ける?」


 




















31

サラザールは小さく首を横に振った。
「いや、俺は・・・・・・」
「弾けないの? 意外だな、教養がありそうなものなのに・・・・・・」
は言って、鍵盤に向き直ってから、不意に疑問が浮かんでその手を止めた。
「・・・・・・ピアノが作られたのっていつだっけ」
は考えを纏めるために呟いたのだが、それに生きた歴史書――もとい"死んだ"歴史書が答えた。
「17世紀頃だったか。それまではオルガンだったな」
「なるほど。弾けないのも当然か」
「まあ、そうだな。ピアノを弾いたことはないが・・・・・・オルガンに触ったことくらいはあるぞ」
「そうなの?」
1000年前の音楽とはどういうものだったか――。は思いを巡らせながら鍵盤にそっと撫でた。
「どんな音楽?」
「よく覚えてはいないな。今ほど多彩でもなかったし、俺は芸術に造詣が深くない。そういうのはヘルガの分野で――」
サラザールはそこで言葉を切った。まるで昔のことを口にするのをためらったかのようだった。は暫くその先を待ったが、サラザールはぎゅっと眉を寄せて黙り込んだので、溜息を付いて助け舟を出した。
「弾けるなら聞いてみたかったのに。残念だな。しょうがない・・・・・・別に昔のでなくてもいいから、一つくらい耳に残っている曲とかない?」
サラザールは予想に反して、否定をしなかった。
「一つ・・・・・・ある」
は少し驚いたが直ぐに訊ねた。
「へえ、どんな?」
サラザールは口を開き、迷って閉じた。どうやら歌うのを躊躇っているらしかった。はその、男子中学生のような恥じらいに、堪えきれないと笑い出した。
「躊躇うから恥ずかしいのよ」
「うるさい」
サラザールはむっつりとして黙り込んでしまった。幽霊でなかったなら、その肌は少し赤みがかっていただろうか。は笑みを濃くして「いいから、言ってみて」と鍵盤に指を置いた。
サラザールはさらに不機嫌そうにしたが、やがて小さく呟くようにメロディラインを歌った。低いバリトンの声が掠れている。はそのかすかな声を聞き取って、ああ、と得心し、繰り返し自分も口の中でその旋律をなぞった。
「確かそれ、ジムノペディだ」
同じ調子で続くメロディラインの音階を探して、の指が何度か鍵を叩く。
「どの音かな・・・・・・」
「ここだ」
「ここ?」
音階を知らないらしいサラザールは指でファのシャープを指した。は言われたとおりにそれを弾くと、「ああこれだ」と次の音を探した。
たどたどしく主旋律だけが奏でられる。音のない室内にポロン、ポロンと音が寂しげに響いた。冷たい石に転がるようで、まるで響かない。ただ落ちるように音が続く。月が丁度窓に差し掛かって、透明なピアノの表面を淡い光が滑った。
は覚えているフレーズだけを弾き終えると、サラザールの方を見て苦笑した。
「難しい」
「・・・・・・だろうな」
サラザールはぼんやりとした様子だった。先ほどは燃えるようだった眼も、ただただ白く淡いだけで、それこそガラスのようだった。長い前髪が銀糸のように垂れて、眼を覆う。何もかもに色がない。まるでこのピアノのように。
はどうしてサラザールがこの部屋のことをに教えたのかと、それを考えた。確信というほどではなかったが、サラザールにとってのこの部屋は思い入れがあるもののような気がするのだ。だからは、リドルと距離をおきたい今、いっそここに滞在してしまおうかとすら考えたが、それを実行しようとは到底思えなかった(とは言っても、実際あからさまにリドルから離れることは危険であったというのもある)。
他にも知りたいことはあった。例えば彼が知っているといったジムノペディは、彼が生まれたときにはない。それを、音楽に理解がないといった彼が――音階も知らないというのに、指を置く場所を知っていた。幽霊として生きている間に誰かに教わったのだろうが、今まで忘れなかったのは一体どうしてなのだろう。
しかしにはそれを聞くことは出来なかった。もしも聞いたとして、サラザールが答えるかどうかを、は予想できなかったからだ。
代わりには別のことを訊ねた。
「弾きたい?」
「は?」
「だから、ピアノ。弾いてみたい? きっとサラザールの方がましに弾けるよ」
サラザールは目を瞬いて、それから怪訝な顔をした。
「どうやって弾けというんだ」
「あ・・・・・・まあそりゃあそうか。うーん・・・・・・幽霊って不便ね。憑依して誰かの身体を乗っ取るとか出来ないの?」
サラザールは肩をピクリと揺らして、の真意を探ろうとするように眼を眇めた。
「出来なくは、ない」
「出来るんだ」
は純粋に驚いた。そしてトンと指先で自分の胸を指して、首を傾けた。
「じゃあやってみる?」
これにはサラザールが言葉を失った。


 




















32

壁にある唯一の燭台――おそらく入り口と同じような機能をするだろうものが、静かに燃えている。ごつごつとした石肌が、その突起の裏側に影を作り、より濃い黒が生み出される。それに比べ、たちの足元は藍色に近い薄闇で、静謐ですらあった。
はようやくガラスの椅子に座った。ひんやりとした温度がローブの下から伝わってくる。は後ろ手に足裏の砂を払い除け、試しにペダルに足を置いた。滑らかなガラスの表面が、吸い付くように触れる。どういう構造なのか、関節までガラスだというのに押さえ込んでもどこかが擦れあうような感触はしなかった。
ローブの袖を伸ばし、先ほど触った鍵盤の指紋を無造作にふき取る。そんなを見て、サラザールは搾り出すような声で言った。
「お前は・・・・・・何を考えているんだ?」
「何って?」
「お前を一度陥れようとし、自分を嫌っていることまで分かっている相手に、何を思って無防備に身体を差し出すような真似をする? お前は不可解だ。やはり、いつものように好奇心が故か? それだけのものの為に、お前はそこまで自分の身を蔑ろに出来るのか? いや、違う・・・・・・蔑ろというには自己嫌悪を感じない。興味関心がないように、身を守る意志がない。お前は・・・・・・遊んでいるだけだ」
「サラザールは」は足をぶらぶらと揺らした。「時々、まるで私の身を案じるようなことを言うね」
「そんな話では――」
「あくまで"私の身を"だけど」
サラザールは沈黙した。は背のない椅子の角を押さえ、身を仰け反らせて窓を見上げるようにした。
「身体が欲しいのかと思ったけど、その様子だと少し違うのかもね。でも結局、あなたは私そのものに重きを置いてはいないんだ」
ピアノは僅かに発光しているようにさえ見えた。差し込んだ月明かりがガラスの中で屈折し、石畳に複雑な筋を描き出している。
「そっくりだよ、サラザールは。リットルさんと・・・・・・」
は眼を細め、囁くように言った。その網膜にはリドルの姿があった。
やがて姿勢を変えないまま、は言った。
「ねえ、聞いてもいい?」
「なんだ」
サラザールはの視線の先を追った。天井の凹凸には光の加減で白い点々があり、まるで星空のようだった。
「憎しみすらある私にとり憑いて、そんなにも弱い存在になってまで消えずにいる。そうまでして叶えたいあなたの望みってなに?」
サラザールは黙り込むしかなかった。はようやく姿勢を変え、サラザールを見る。その顔にはうっすらと微笑さえ浮かんでいた。のそれは寂寥だった。マグルとしての自分が必要とされないことに対する自嘲でもあっただろうか。
口を開いたサラザールは苦しそうですらあった。
「まだ、俺の目的をお前に伝えるわけにはいかない。けれど、俺は・・・・・・お前に協力を求めたい」
それはプライドを捻じ伏せて、マグル嫌いのまま、それでいてに協力を求めたいという、サラザールの切なる願い。しかしは暫く考えて、やがて緩やかに首を横にふる。
「実は人参の方はあなたを嫌ってなくてね」
「なんだと?」
「・・・・・・あなたは私が嫌いみたいだけど、私はあなたが結構気に入ってしまっている。だからあなたの願いというのを、叶えてやりたい思いはある。けれど、それだけでは無理だ。あなたのそれは嘘だね。あなたが欲しいのはおそらく協力ではなくて従属だ。そう断定できる理由は、言わなくとも分かるでしょう?」
「俺は――俺はお前が嫌いだ。マグルではなくとも、絶対に」
目を逸らし憎々しげに呟かれたそれは、サラザールの優しさでもあった。少なくとも、にとってはそうだった。しかしその唯一を、は受け入れることは出来なかった。
「あなたの願いは、いま告げられないという時点で私に不利益なものだと分かりきっている。私は、あなたの為に身を削ろうとは思わない」
サラザールは奥歯を噛み締めていた。はサラザールから目を逸らし、けれど先ほどより幾分か柔らかい声で言った。
「だからいま私があなたに出来るのは、ピアノを弾かせてあげるくらいだよ」
は「どうする?」と問いかけた。そっと吐き出された溜息のことにも言及せず、ただ無邪気を装って。
その時のサラザールにあったのはおそらく諦めだろう。顔を上げたサラザールはを見、口を開いた。
だが、その時のサラザールの答えが分かることはなかった。サラザールが答えるよりも一瞬早く蝋燭の炎が揺らめき、燭台が回り出したからだった。


 

















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