33

たちの視線が注がれる中、燭台は独りでにくるくると回っていた。もちろんは触れていない。ピアノの椅子に座ったままで、燭台とは数メートルの距離がある。サラザールもの傍らにおり、たとえ触れられたとしてもその場から干渉することは不可能だった。仮に遠隔操作が可能だったとしてもする理由がない。と同様動かずに壁を見つめているところからして、行動を起こした張本人とは考えにくい。だとするなら――。は考えた。こちらの燭台も反対側のものと同じ仕組みになっているのではないだろうか――つまり向こう側から通路が開かれようとしている。誰かがこの部屋に入ろうとしているのだ。
はたしてその推察は当たっていた。入室時と同じように壁がぱっくりと割れ、その向こうには人影があった。
は椅子から立ち上がらず、僅かに姿勢を低くしたまま様子を窺った。の知る限り、この部屋の出入り口は一つしかない。その人物との接触が避けられないだろうことをは理解していた。
やがて身を屈めるようにして通路を抜けてきた人物は、長いローブをずるずると引き摺り室内へ踏み入った。鳶色の髪にはやや白髪が混ざっており、同じく長い髭はベルトに挟みこまれている。初老の男性は彫りの深い顔に月光を浴び、天井から床の隅までを見渡す仕草をすると、頭に乗せた帽子の位置をひょいと直した。半月形のメガネの奥、透き通るような青い瞳を瞼で隠すように細めて、柔らかく微笑んでいる。
「真夜中に聞くピアノの音は格別じゃの。この時間帯の空気にしか響かないような音を一人占めできる。孤独ではあるが、ある種必要な孤独じゃ」
は目をすうっと細くして、その男を眺めたが、やがて諦めたように溜息をついた。
「こんばんは」
「おお、これはすまなんだ。挨拶を忘れておった。こんばんは、お嬢さん。わしはダンブルドアという。この学校で変身術の教師をしておる」
ゆったりとした口調でダンブルドアは言うと、ローブを引き摺って一歩距離を詰めた。が立ち上がろうとすると、それを片手で制して微笑む。キラキラとした目は昼の空に星を散らしたようだった。
は浮かしかけた腰を下ろし、ちらりとサラザールに目をやった。サラザールはダンブルドアを眺めていたものの、あまり関心はないようだった。はもう一度ダンブルドアに向き直った。
「夜分遅くに煩くしてすみません。防音してあるものとばかり思っていました」
「いやいや、悪い音色じゃあなかった。それにわしに聞こえたのはたまたますぐ近くを通ったからじゃよ」
上階の塔の近くにたまたま?とは思ったが、意味の無い疑問だろうとそれを打ち消した。
「私はといいます。訊ねずとも自己紹介をしてくださったところから窺うに、『初めまして』であることはばれてしまっているようですね」
ダンブルドアはふぉっふぉっと好々爺のように笑ったが、その顔には子どもじみた無邪気さがあった。
は若干の苦手意識を覚え、眉を寄せて頬杖をついた。
「生徒以外の者を見つけたというのに、まるで驚いてないんですね。結構自由に遊ばせてもらっていたし、全くばれないとは思っていませんでしたけど・・・・・・分かっていたのに放置されていた、となるとなんだかつまらない。一体いつから気づいておられたんです?」
「そうじゃの。君の存在には随分前から気づいておったよ」
ダンブルドアはけろっと答えた。答えになっていない点からして食えないジジイだ、とは思った。
「これでも不法侵入なんですけど」
「そのようじゃの」
「・・・・・・捕まえる気とかないんですか」
「さて、どうしようかの。訪れた目的も知らないままに追い出してしまうのはちと勿体無い。かくいうわしも冒険が好きでな・・・・・・ちょっとばかりダームストラング校に潜入したこともあるんじゃ」
人差し指を口の前に立ててダンブルドアがお茶目にウインクした。は薄く長い息を吐き出した。飄々とした態度といい、困った老人を相手にしている疲れが滲む。その実、素直にいいお爺ちゃんだと受け取ることも出来ないため、はやりにくさを感じていた。しかし、そのダンブルドアにも若さのような何かが感じられる。小説で感じたような超人さはあまりなく、どこまでも超越されているような圧迫感はなかった。
「おぬしはどのように潜入したのじゃ?」
ダンブルドアは咎めるというよりは冒険譚を楽しみにしている様子だった。
「そうですね、言うなればペットと同じです。とある生徒に匿ってもらっていまして」
「ほほう、一体誰なのか、非常に気になるところではあるのう」
この狸ジジイはどこまで知っているのか――。は迷ったが、ダンブルドアのどこまでも優しげな瞳を捉え、対抗しようと、隠し事をする子どもを装ってにっこりと笑った。
「申し訳ないけれど、私はその人のリットルさんという呼び名しか知らないもので」
流石に意味が分からなかったのか、ダンブルドアはその水色の瞳をパチパチと瞬かせた。


 




















34

空がかすかに明らんでいる。時間はもう四時を越えただろうか。腕時計を見るべきかどうか迷っていると、ふいにダンブルドアが視線をずらした。
「して、君の隣にいるものはなんだね?」
はぎょっとして一瞬サラザールに目を向けた。サラザールも驚いているようで、ダンブルドアを凝視している。
「もしかして・・・・・・見えるんですか?」
対してのダンブルドアの返答は、否定だった。
「いいや。ただ、かすかな魔力の歪みを感じておるだけじゃ・・・・・・それがおぬしの一部なのか別なのかは分からぬが、あまりにかすかで、しかし存在しないことには出来ないくらいのものを、のう」
は内心舌を巻いた。さすがは世界一の魔法使いというべきか、ひとつひとつのことに対しての察知能力が優れすぎている。に魔力はないから、それに気づくということがどれほど困難か理解できないが、それでも感心した。むっつりと押し黙っているサラザールを一瞥してから、は言った。
「流石はダンブルドア先生、大正解です。実は、ここにあらせられますのはサラザール・スリザリンの幽霊でしてね」
「幽霊、とな?」
「ええ。どうも長い年月を経たせいで力の大半を失っているとか」
「年月?」
ダンブルドアは少し考えるような仕草をした。ふむ、と顎に手を当ててじっとサラザールのいる辺りを見つめている。
「私がここにいるのも彼のためなんですよ。彼がホグワーツに来たいというので、連れてきたんです」
「ほう」
「おい、喋りすぎじゃないのか」
サラザールが口を挟んだ。はダンブルドアにそれが聞こえていないらしいのを確認してから、「いいじゃない別に、隠すことでもないし」と明らかにサラザールに話しかけていることが分かるように言った。
「なるほど。創設者殿はどうしてこちらに?」
ダンブルドアはサラザールがいる空間に尋ねつつ、に回答を求めた。
「今のところ秘密だそうですよ」
「おお、それは失礼した。ぶしつけな質問じゃったかの」
ダンブルドアは相変わらず穏やかな様子で、微笑みにも不自然さがない。老成している。
「・・・・・・自分で言うのもなんですけど」は腕を組んで椅子に体重を掛けた。「よく信じられますね、こんな話」
ダンブルドアが本当にの言葉を信じているかどうかは別にして、疑う素振りを見せないところがは気に掛かった。とはいえ、ダンブルドアの飄々とした態度にそんなものを求めても仕方のないことなのだろうが。
はぐらかされるかと思ったが、予想に反し、ダンブルドアはこともなげにいった。
「辻褄が合うからじゃよ。実は、驚くことに・・・・・・生徒でもない者が侵入しておるのに、絵画やゴーストたちは誰もがそれについて口を噤むのじゃ。こんなことは今までになかった。じゃからわしも、何者かの存在には気づいていても、中々それを見つけられなんだ。じゃが、今の言葉でようやく納得がいった。それが真実なら、彼らが何も言えなかったのも道理というものじゃて。おそらく彼らは、創設者殿だと気づいておったのじゃろう」
言われて、そういえば対策を怠っていたということに気づいた。絵画やゴーストはある意味この城の番人とも言えるのだ。たとえばシリウス・ブラックが侵入したとき、太った貴婦人が襲われた。他の絵画たちもそれを目撃している。は抜かったとも思ったが、どうして今まで気づけなかったかということも考えた。それは、絵画や幽霊たちの反応があまりに遠巻きで、恐れおののいていたり、頬を染めていたり、興味深々に覗いていたりと、好意的だったからだ。そういえば動く階段もサラザールには従った。サラザールの影響力は意外と強いようだ。
「絵画とか幽霊は、サラザールが分かるものなの?」
が訊ねる。サラザールは眉をぴくりと動かし、まるで今話しかけるなとばかりに嫌そうな顔をした。
「まあ、そうだ」
「なんで? 見えてるの?」
「違う。おそらく感じ取っているだけだろう。お前に憑くことで俺とお前は魂として非常に近しいものになっている。彼らはお前から、俺の魔力の波長、魂の形を見出している」
「ふうん・・・・・・みんなサラザールのことを覚えているんだね」
「城が覚えているだけだ」
「城が・・・・・・?」
ピアノにもたれかかるような姿勢で、サラザールは煩わしげにふいと顔を背けた。
「この城は生きているからな」
それきりサラザールは口を閉ざしてしまった。はしばらくサラザールの言葉を咀嚼していたが、やがて再びダンブルドアへと意識を戻した。
「とりあえず、しばらく見逃してくれませんか。二ヶ月ほどで帰る予定ですし、生徒達に危害を加えるようなことはありませんから」
その時のダンブルドアは、の心を覗き込もうとしているかのように眼光を鋭くした。しかしそれも一瞬で、やがてクツクツと笑うと、「それが良いようじゃの」と頷いた。
「では、今夜のことはわしの胸にしまっておこう。わしは夜中に出歩いている生徒を見つけて、こっそりと寮に帰るように言った。それで構わんかの?」
随分物分りがいい、とは内心警戒したが、それを振り払った。椅子をひょいと降りて、立ち上がる。足元に置いていた靴を履いて、かかとを収めるようつま先をとんとんと数回弾ませた。
「ええ。では、お叱りを受けたのでそろそろ帰りますね」
「おやすみ。良い夢を」
「おやすみなさい」
すっとが横を通り過ぎたのを、ダンブルドアは黙って見送った。が燭台を回し、通路の奥に消えるまで。そしてそれに微弱な存在がついてゆくのも感じ取っていた。
は通路を抜けると螺旋階段を降り、廊下を進んで、行きにも通った踊り場に立った。動く階段が丁度接続したところだった。無音の校内に、ガシャン、というはまり込むような音がやたらと大きく響く。はちらりと横のサラザールを見た。この城は生きている――その言葉がもう一度脳内を巡った。


 




















35

空の青さや雲の白さが平和を表すなら、現在もそうに違いなかった。日本とは違い、湿気の少ない温暖さは、にしてみれば残暑だとは思えない。季節というよりも何か別の、気温であり気候だ。の身体に染み着いているものとはまるで違っている。天気は曇りが多い。だから青空の日には特別な爽快感がある。今日の遙か高みにある空は、確かに、その下に安寧をもたらしているようにしか見えなかった。
ところで、アルファード・ブラックを一方的に友達認定した。相互間の認識や、第三者による評価はない。一人がそう決めている。
ここのところ、は毎日のようにアルファードの元に通い詰めていた。正しくは、アルファードが良くいる昼寝スポットに、だが。
甘いものはおろか会話や関わり合いは殆どなにもなかったと言っていい。はそこに訪れて木の根本で眠っているだけだったからだ。
は安眠場所を失った。リドルはいまだ、の敵にはなっていない。妙に艶やかな優しさを帯びた以外には変化もなく、相変わらずを保護している。しかしそれは細く張りつめた糸でしかなかった。均衡が崩れた時点で、時間が立てば切れる時限式のものでしかなくなっている。
目を閉じていれば開心術はされないものの、隙を見せて拷問されたらたまらない。リドルの部屋という庇護のもとでは、外部を遮断できるというメリットの反対に、閉じこめられれば逃げ出せない檻にもなりうるデメリットがあった。いくら身を守ることにやや意識の欠けるにも、さすがにこれは見過ごせない。だからこそ、リドルの傍で意識を手放すという行為がにはできなかったのである。
もはやリドルの近くは安全な場所ではなくなっていた。
夜はなるべく城内へ出歩くようにして、布団を借りるときも狸寝入りをした。扉には魔法で鍵を掛けられないよう細心の注意を払った。そして昼には、アルファードの元へ訪れ、崩れるように眠るのだ。
宿を変えるという手もある。それこそあのピアノの部屋に・・・・・・とも考えはした。しかし、すぐに彼の庇護から逃げ出すのは逆に危険だった。リドルが強い興味を抱いている以上、力ずくで手に入れようとしかねない。彼がすべてを今すぐ知りたいとなったら、容赦はされないだろう。なにせ彼は優等生だ。教師に一言、「最近生徒でない人物を見かけた」という話をすれば、それだけでの行動は殆どが縛られる。そうでなくとも絡め手に掛けるのはたやすいことだろう。
にできるのは、が前回の件で警戒しているとリドルにわからせることだけ。それも、少しでも計量を間違えば彼を刺激しかねない、恐ろしく精度を求められる、間違いの許されないものだ。
今のにとって日差しは眩しいだけであり、青空の下の平和は、形ばかりのものだった。


 




















36

「今日も来たのか」とアルファードが言った。これは珍しいことだった。そもそも声さえ聴く機会が少ないのだ。は目をぱちくりとさせ、「ああ、うん」と半ば意識の外で答えた。
「あまり眠れていないの」
丘状になっている地面の下方にいたは、芝生を踏みしめアルファードの元に歩み寄る。そして、いつもそうするように人一人分の間を開け、一際太い木の根の間に座った。
完全に昼夜逆転生活に適応した身体は、それだけで睡魔を呼び込む。ぼうっと前方を眺めるセツを、アルファードは眉を寄せて見つめた。
「なんだってこんなところで。木はたくさんあるだろう」
アルファードの口調は淡白なものの、攻撃的ではない。毎日自宅に現れる猫に慣れた、といった様子だった。
「ここでしか・・・・・・無警戒に寝られないんだもの」
はいつもより少しゆったりとした動作で瞬きをする。声も眠気から舌足らずになっていた。
アルファードは鋭い視線で愚鈍なの様子を観察していたが、やがてふっと息をついて本に視線を戻した。どうも彼には、外界に無頓着なけだるい雰囲気がある。はその横顔を見てうっすらと微笑んだ。
この無関係さがの救いなのだ。ここにいるときだけが、一人だった。
リドルもサラザールもオリオンも、一動作さえ見逃せないような人間と始終一緒にいることは、じわじわと疲れを募らせる。半分追われているような身なら尚更だ。

リドルとは、今までと関係が変わっていないということを演じるままごとに応じさせられているにすぎない。
ある日寮に帰ると、リドルは優雅に足を組んで椅子に座っていた。
「君は思ったより弱いのかな」とリドルは言った。
「私をトロールとでも思っていたの?」は面白味を少しも感じていない声で、答える。「せいぜいボガードレベルだわ」
「そうみたいだね。僕はもう少しちゃんと君を守るべきだった」
リドルの視線はの手首の傷に向けられていた。あまやかな声は心を静かに削ぎ落とされているような感覚をもたらした。
「次からは気をつけるよ」


 




















37

すぐ目の前にリドルがいる。柔和な笑みで、毒など全く感知できない。彼は廊下の格子窓に手をかけ、指先で月の光をなぞった。廊下。ここは、天文塔の傍か。
夢、だろうか。
リドルに不自然がられない程度に視線を滑らせる。夜。星明かりまでもが微かに床に当たっている。ひどく、静かだ。
「リドル?」
は自分の行った呼び掛けにハッと息を飲んだ。違う、彼はリットルだ。リドルではない。しかし、リドルは全く意に介さず――というよりはここがの声が意味を成さない世界のように――喋った。それで、確かに夢と確信した。
「君の推理通り、事実僕は混血だ」
「そう――」
は、自分が話すのを聴覚から感知する。記憶に思い当たるものがあった。これは、昨日の会話だ。夜、校内を徘徊しているの元へ、リドルが現れた。そして、すこしの話をしようと、言った。
「でもあなたは、純血主義だわ」
リドルはクスクスと笑う。恐ろしく妖艶で、喉で影が燻っているかのような声だった。
「そうだね。だから僕は、僕の半分の血を憎んでいる。恐らく君が想像できないくらいに深く、昏く・・・・・・」
意識外の会話進行は昨日のままだ。しかし、その情景は実際よりも陰影がはっきりして、リドルの姿はより深く闇に沈んでいた。
「それは」は拍数も同じく言い澱んで、しかし口にする。「破滅の道ではないの」
「さて、どうだろう」
「マグルを滅ぼして、あなたは、あなたの血は、それでも半分にはならない。人を殺して裂けるのは魂だけだ」
「死の呪いについても詳しいのか、君は」
リドルは心底感心したようだった。微かに声が上擦り、興奮を滲ませる。は唇を噛んだ。
「マグルを滅ぼして、マグル生まれも消えて、その世界で混血のあなたが生きるって? 死を厭って? ・・・・・・狂ってる・・・・・・」
彼の賢い頭ならすぐに行き着く未来像を、けれど彼は違うように見ているらしい。動じる様子はない。に、彼の中の未来は見えない。
しばらくの様子を見ていたリドルは、やがて得心したらしい。
「ああ、なるほどね。穢れのない完全な世界では、たった一人の混血となった僕が生きていけないだろうと、心配している?」
は黙ってリドルの口元辺りを睨んだ。目を見ない習慣はまだ抜けていない。
リドルの前髪から滑り落ちた月光が、睫毛の先に移り、頬を滑って、壁へ。煉瓦の壁は冷たい。蝋燭のない今は赤み全てが青白い夜色に染め変えられている。途中微かにピーブスの暴れる音が遠く届いたが、それでもこの場にある空気は何一つ崩れなかった。
リドルの声に、乱れは一切ない。
「僕は死など選ばない。そうだね、その未来の結果は、すぐにでも見られるだろう」
の髪を掬って――リドルはその手を傾け、さらさらと零し、かと思うと流れるように身を翻す。無風の空間に、その動作による空気の揺らぎがしばらく残った。
「――私は!」
はその背に声を投げかけていた。これは捏造だった。夢でしか成されないことであり、現実、彼女はリドルを見送っただけだ。しかし、望みとして反映されたか、あるいは後悔だったのか、夢は都合で捩曲げられ、会話は続けられた。
「その世界にいない! 見られないよ! 私はっ――」
リドルは振り返り――なにをした?
明暗がくっきりとしすぎていて、にその顔は、見えない。
「不完全な・・・・・・世界の。人間だから・・・・・・」
変わらず、は、瞳を見ようとしない。


 




















38

「・・・・・・た・・・・・・おい! ・・・・・・きろ!」
夢から浮上しかけた意識に、誰かの声が届いていた。しかし未だ眠りの底にある脳、あるいは五感は、それを捉え切れずにいる。
起こされているだろうことだけは分かったが、はまだ、起き方を判断できる段階にない。起きようと考えているだけでぼやぼやとした夢うつつにいると、やがて声を掛けていた人物も諦めたようだった。短い舌打ちの後、少し間があって、ふわりと身の浮くような感覚がする。
・・・・・・身が浮く?
てっきりサラザールが小言でも喚いているものだと決めつけていたは、そこで改めて驚きを覚え、やがて徐々に覚醒した。
すでに地面には下ろされていた。
まず目に入ったのは大木の根。昼寝場所の木に間違いない。しかし、見える景色は全く違った。いつもなら顔を上げると渡り廊下と校舎を繋ぐ壁が見えていたが、今それは見えず、禁忌の森の入り口や湖が遠くに見える。いつもの木の裏側だ、と気付いた。
「やあ、アルファード」
大木越しに届いたのは、全く聞き覚えのない声だ。彼は裏にいるには気付かなかったようで、アルファードに話しかけている。
「おや・・・・・・今は一人なのかい」
は眉を潜めた。
声質は濁りが一切なく澄みきって美しい。口調も柔らかで、流暢な言葉はそれだけで整った顔を想像させる。王子に会ったことはないが、空想上のそれはこんな喋り方をするのではないかとさえ思わせた。
しかしどうしてか、言葉が嫌に耳に残る――。
「上から見たときにはもう一人女性が居た気がしたんだが。気のせいだったかな」
おや、と僅かに首を傾け、は木の隙間に身を寄せた。
目的は――私?
耳を澄ませるが、アルファードは本のページを繰ることを答えとしたようだ。
パラ・・・・・・と紙のめくれる音がしばらく続いた。かと思うと、相手の王子が突然笑い出した。
「ふふ・・・・・・まあいいか。それじゃあね、親愛なるアルファード。私が言うことでもないだろうけど、授業にはもう少し顔を出しておきなよ」 」
草を踏み締める音がする。はその足音が去る方向を慎重にさぐって、身体がはみ出ないように調整した。しばらくそうして様子を伺い、機を見て覗き見たとき、遠くに小さくプラチナブロンドの後ろ姿が見えた。


 




















39

遠退く姿に目を懲らしていると、アルファードが言った。
「もう少し隠れてろ」
「あ、うん・・・・・・」
アルファードをちらりと見るが、本から目を離さない。困惑しつつも木の裏に引っ込んで、はしばらくぼうっと枝葉の隙間を見上げた。
「あのさ、アルファード」
「なんだ」
「もしかして助けてくれた?」
間は空いたが、声は届いている。ページをめくるスピードが僅かに遅くなった。
「上階の窓から顔を覗かせたあいつが、お前を見た途端薄気味悪く笑ったんだ。嫌に上機嫌だった」
「はあ、それはまたなぜでしょう」
「知らん。だが昔からあいつのあの顔はろくなことを企んでない」
「・・・・・・知り合い?」
「腐れ縁だ。家族ぐるみでな」
「それで、私を隠してくれた」
「頬を叩いても起きなかったからな」
淡々とアルファードが言う。もういい頃合いだろうと思ってアルファードの傍に回り込むと、意外にも目を向けられた。
アルファードはじっとの瞳を見つめて言った。
「周りに警戒しなきゃならない立場なら、もう少し危機感を持てばどうだ?」
話はちゃんと聞いていたらしい。反応に乏しいだけで、彼はよくこちらを観察していたということだ。
アルファードの、こちらを真っすぐに見据える灰色の瞳に、澄んだ陽光が差していた。
「・・・・・・アルファード」
「なんだ」
「嘘、下手?」
「は?」
本の端を触っていた手が止まる。はにこっと笑った。
「さっきの王子に、わりとびっくりするくらいお粗末な反応してたけど・・・・・・いや、違うか。嘘はつかないんだね。君は、誠実だ」
アルファードは沈黙している。の真意を計ろうとするようだ。そう、彼はけして嘘に耐性がないわけではない。の適当な軽口を真に受けないし、遠くの人間の表情を読む観察力もある。あのブラック家で生きてきたというだけあって、その能力はより確かであると言えるだろう。それでも彼は、嘘より沈黙を選ぶ。
だからオリオンとは違う。例え反応が冷徹でも、スリザリンでも、ブラック家でも、あるいはだからこそ――唯一シリウスに味方する。
はその瞳を見返した。
この人物は信用に足る存在なのだろうか、と。
今、の周りには信用できる人間が一人もいない。リドルはもちろん、オリオン、サラザール、そしてダンブルドアでさえも。極めて不安定な繋がりだけがそこにあり、は孤立している。それも、魔法使いの中でだ。マグルであるは、だからこそこの場所に愛着を持つし、彼らを少し遠ざける。
しかし一人でも信じられる者がいれば、状況は変わる。行動、言葉、情報の一つ一つを疑わないでいられるだけで、それは利益となる。
この人間を、味方にできないか?――そう見極めるように、は灰色の瞳を覗き込んだ。これは賭けでもある。しかし、何かしらの一手が必要であることを、は心得ていた。
「隠してくれてありがとう。でも」
「でも?」
「賢くはないかも。私はここの生徒じゃないし」
言葉は自然と零れた。の付け焼き刃の誠実は、嘘をつかないこと、だったからだ。


 




















40

アルファードは言葉を返すより先に、ちらりと辺りに視線をやった。まるで誰もいないことを確かめるようで、 告白の危険さを理解したにしては早すぎるようにには感じられた。
は反応のズレを見極めようと、目を眇めた。
今のはなんだ。仲間でもいるのか?
しかし、それは杞憂だった。アルファードは確認を終えるとすぐに視線を戻した。
「そんなことはとうに知っていた」
意表を突かれたは目をぱちくりとさせた。
対してアルファードはしれっとしている。気付いていたのは本当らしい。
には現状が全く理解できなかった。適当に接するだけの彼に気づく機会があったというのも驚きだったし、気付いていて手助けした事実は更に驚くべきことだ。
珍しく呆けているを見て、アルファードは僅かに表情を緩めた。
「ミネルバが名を知らなかっただろう? そんなこと、普通の生徒ならありえない」
ミネルバの性質を思い出しながら、ようやく頷く。
がアルファードと出会ったとき、ミネルバはを「ホグワーツナビさん」と呼んで探していた。その時彼が妙な顔をしたのはそのせいだったのだろう。
「ああ、そっち方面からね。やっぱり彼女に顔を知られたのは失敗だっ――ミネルバ?」
顔が元に戻ったのもつかの間、再びの動きが止まる。
この男が、スリザリン生が、ミネルバを名前呼びだと?
それも、まるで――。
の思考は完全に停止していた。かろうじて残っていた過去の思考の言葉だけが遅れて漏れる。
「たった一度、名を呼ばなかったことを・・・・・・」
「彼女は、知っている人間を必ず名前で呼ぶ癖があるんだ」
アルファードは初めて、その顔に微かに笑みを漏らす。それは、あまりにも自然体で、普段の石のように動かない様子からは到底想像できないものだった。
「友人のあんな姿は初めて見た。彼女はよほど君が気になるようだな」
「・・・・・・友人」
あっさりとした口調は、逆に酷く親しげに聞こえた。
空いた口を無理矢理閉じ、はその顔を食い入るように見つめる。
あのブラック家の長男と。
後のグリフィンドール寮監が。
・・・・・・友人?
無意識に渇いた笑いを漏らし、は額を抑えた。
そしてそれがついに込み上げて、声を上げて笑った。
静かな青空に響いた笑い声は、まるで生徒同士の団欒の一部のようだった。
こんな気持ちを覚えたのはいつぶりだろう?――緊張が一気に溶けていくのが分かる。
「はははは! それは予想付かなかったわ。とんでもないところからバレたもんだ」
「まあ、意外だろうな」
慣れきっているのだろう、特に不機嫌そうではない。
「そうか、ミネルバと友人になれるのか、君は・・・・・・!」
は口の端を吊り上げ、猫のように眼を細める。
この辺りから反応が多少毛色の違うものだと気付いたのだろう、アルファードは至極楽しそうなを疑念を込めて見返した。は、しかし身を乗り出すようにしてアルファードにぐいと顔を近づける。
は上機嫌だった。闇陣営の近くばかりにいた彼女の目には、寮を越えての友情を平然と語ったアルファードが実際以上に新鮮に映った。この掴みにくい人物から垣間見えた初めてのものがそれだったのだ、目新しさに高揚しても無理はない。
「そりゃあ、信用できるどころの話じゃないわ」
「は・・・・・・?」
「ねえアルファード、私の味方になってはくれないかな 」
今度はアルファードが眼を見開いた。


 

















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