49

先に動いたのはだったが、オリオンの攻撃は驚くべき反応で放たれた。咄嗟に身を屈めたの頭上を閃光が通り抜ける。舞い上がった髪に掠め、数本が切り離されてぱらぱらと地面に散った。
とりあえず、閃光が緑でなかったことには安心した。ここで殺すわけがないと思っていても、多少の不安はあったので。
ドッヂボールに明け暮れた幼少時代も無駄ではなかったな、などと考えつつすぐに身を起こす。第二撃は想定よりも早かった。飛び退って避けるも、体勢を整えきることができず、膝を付いてしまった。
一か八か前転でもするしかないかと思った時だった。
「プロテゴ!」
透明な壁にぶつかったように、黄色い閃光が中空で弾けた。それを見届けきることもなく、腕を強く引かれ、は木の陰に転がり込んだ。
「大丈夫か?」
杖を構えたアルファードが立膝を付き、木に手を置いてオリオンの様子を窺っている。その背中を見上げたは、慌てて身を起こした。
「あ、アルファード? 何をやって・・・・・・」
「一応味方だからな」
と、言うその声は苦笑いのようでいて、しかし焦燥がある。
ピタリ、と呪文の嵐が止まった。
一部の芝生に焦げ跡が残り、そこから小さく立ち上る煙は風に揺れている。
すっと周囲の温度が下がったようだった。
「どういうおつもりです?」
抑揚のない声が届く。変わらず杖は向けられているのか、アルファードは杖を構えたままだ。
はアルファードの横に並び、オリオンの方を窺おうとしたところで、アルファードの表情の険しさに気づいてはっとした。
オリオンが静かに言う。
「あなたはブラック家の血を持つもの。その意味をお忘れなきよう」
アルファードの表情は陰り、自嘲とも取れる表情で、小さく呟いた。
「・・・・・・心配しなくとも、俺は家を裏切らないよ」
ああ、この人は――。は髪で隠れて表情の見えないアルファードの横顔を見つめ、思った。この人はシリウスとは違う。
アルファードがゆっくりと顔を向け、を見た。感情は殆ど浮かんでいない。しかし目が、裏切れない、だから逃げろ、と語っている。
「大丈夫よ」とは囁いた。「経験の差から言って、鬼ごっこは私の方が有利だもの」
たっ、とが駆け出した。呪文は追ってこない。オリオンはアルファードの様子を探っているようだ。目を細め、視線の動きだけで詰問した。
アルファードは既に杖を降ろしている。静かに目を臥せた。
「あなたが命じるなら従う。だが、あいつを攻撃する理由が現時点で分からない。どういうことか説明してもらえないだろうか」
の後ろ姿が丁度中庭への通路へと消えたところだった。オリオンはそれを目で見送ると、「いいでしょう」と言い、その先を続けた。
「その言葉に嘘偽りがないことを期待していますよ、義兄上」
黙したアルファードに、もはやオリオンは目も向けず、畏怖と興奮が相まった表情をその能面に滲ませる。
視線の先が荘厳な校舎に止まると、その瞳は暗さ増した。
操られているか、もしくは夢うつつの中にでもいるように、声は茫洋としていた。
「あのお方は今宵スリザリンを継承する。秘密の部屋が開かれるのだ」


 




















50

廊下には既に生徒がごった返していた。食堂へと向かうその流れを見るに、授業が終わって夕食に向かっているようだ。
オリオンからできる限り逃げるつもりが、それ以前に他の生徒たちが脅威となるとは。 咄嗟に隠れた大階段の裏から一歩も動けずにいるは、ままならなさに焦燥して舌打ちした。
幸い、生徒たちは夕食がなにかに気を取られているようで、ペチャクチャと煩く喋りながら階段を上っていくだけだった。ただし、見つからないまでも動けず時間を浪費するばかりでは、そうも言っていられないだろう。
どこかに隠し通路があるはずだとは思うのだが、階段室付近はそもそもにして人通りが多いため、散策も十分にできていない。ざっと見回したが、杖なしで何かが起こせそうな特徴のあるものは見受けられなかった。
こんなことならサラザールに無理を言ってでも散策すべきだったと、後悔していたときだった。
「・・・・・・お困りのようですね」
暗がりからの声に、はパッと振り返った。相手を視認する前に立てた人差し指を口に押し当てられ、それが喋るなの意味だと理解する前に、声の主はを暗がりに引き込んだ。
さきほどまで何もなかったはずの場所に、下り階段があった。丁度、大階段の続きを折り返したような形をしている。
松明一つなく、石壁の僅かな照り返しが辛うじて通路の形を判別させていた。いくつかに分岐して分かれる地下道のようだ。少し黴の臭いもする。
問答無用で手を引かれ、その早さに負けないよう走るしかない。地下ということに警戒したが、意外にも通路はすぐに地上へと向かった。
「こちらです、お嬢さん」
突然視界が開け、地上の眩しさが一瞬辺りを白く染め抜く。はやがて、そこが温室の一角であることに気づいた。
手を引いた人物は、を温室の奥へと導いた。光に慣れたの目に、その流れるような金髪が映る。いつかに見たものだ。
「王子・・・・・・」
「王子?」
の漏らした呟きを聞いて金髪の人物は足を止め、振り返った。小首を傾げながら、と目が合うと微笑みを滲ませる。
その線の細い顔を見て確信した。を探してアルファードに話しかけた、あの青年だった。
「いえ、王子っぽい雰囲気をしているので勝手に呼んでいただけです」
は言って、内心の呼び名を王子と定め、彼を見上げた。線の細い体に、リドルと争えるほどの白い肌。全体的に色素が薄いため、日に透けるようだ。表情は柔和だが、振る舞いの完璧さが気になった。
はさりげなく手を解こうとしたが、それはあっさりと失敗した。
手にしているの手を優雅に持ち上げ、王子と呼ばれた男はにこりと笑った。
「王子・・・・・・ね。それなら、オリオンの方が相応しいかな」
オリオンの名が出たことには驚かなかった。彼は緑のネクタイをしていた。
「王族だから、ですか」
「そうそう」
はその言い方に引っかかりを覚えた。楽しげではあるが、嘲っているようにも聞こえる。
奥に行くにつれて、温室の植物は密度を増していた。ボコボコと隆起し続ける植物が、おじぎ草の巨大なものに近い形の植物に触れ、ガタガタと揺れたり、絶えず風に逆らってあべこべになびき続ける広葉樹もある。気まぐれにガラスを殴る枝まであって、鬱陶しいことこの上ないが、その騒がしさが隠れるにはうってつけでもあった。
は変わらず手を引き続ける王子に慎重に尋ねた。
「私を助けるのは・・・・・・」
「それは秘密」
最後まで言わせず茶化すと、ようやく手を離した。
「オリオンはここには来ないだろうから、隠れているといい」
「その理由も秘密ですか?」
「え? ふふ、そうだね。秘密だよ」
くせ者だな、と思った。随分と綺麗に笑う。
そのとき、外壁のガラス越しにアルファードの姿を見つけた。深刻な様子で歩いている。一人のようなので、王子から離れてガラスをコツンと鳴らした。少々強くしても割れないのは後ろの枝が実践してくれている。
こちらに気付いたアルファードは、明らかにほっとした顔だ。相変わらず人柄が滲んでいる。ブラック家を裏切れないと言った声は嘘のない切実なものだったが、それでもを見捨てられないのだろう。
は大丈夫だと口パクで伝えようとした。しかし、アルファードは突然ぎょっとして顔を強張らせた。その視線を辿って振り返ると、いつのまにか後ろへ移動していた王子がクスクスと笑っている。
「見つかってしまったようだ。それでは退散するとしよう」
するりと脇を抜けると、止める間もなく王子は姿を消してしまった。追うにも蔓延る草木が邪魔で、その動きに慣れていないは間に合わない。
それでも追いかけて、なんとか拓けた場所にたどり着いた頃、は別の声を聞いた。
「何をしてるんだ、お前は!」
サラザールだった。


 




















51

「何って、まあ、色々ね。どこまで認知してる?」
「・・・・・・離れたところにいたからな。分かるのはお前が夕食に向かう生徒でごった返す階段室にいる愚か者だということと、一応そこからの抜け道を見つけだしたことだ」
サラザールはむすっとして答えた。避けていたわりに、なんだかんだとを気にしてはいるようだ。
「城の状況がわかるって便利ね。なるほどプライバシーがないわ」
「そんなことはどうでもいい! ・・・・・・何があった?」
「それなんだけど――」
「誰かいるのかしら?」
高圧的な声が差し挟まれ、二人は会話を中断した。
見れば、ブナの低木に手をかけ現れた人物がいる。は一目見て内心冷や汗をかいた。
ウェーブのかかった黒髪、よく通る声、赤いヒール靴。――ヴァルブルガ・ブラック。闇の魔法使いの一員だ。あのブラック家である以上、リドルの息がかかっていると思うべきだろう。
だが、が彼女の出方を伺っているのに対して、意外にも敵意を見せなかった。それどころか、「丁度よかったわ」と、奥の広場を指差した。
「そこの貴方、紅茶をお入れなさいな」
「・・・・・・紅茶?」は目をぱちくりとさせる。「私をご存知なのですか?」
ヴァルブルガはあっさりと否定した。
「いいえ? あたくしは、あたくしに尽くすべきだけの者の顔を覚える趣味はなくってよ」
「そうですか。では、そうでない者は覚えられてしまいますね」
「この馬鹿・・・・・・!」
「・・・・・・なんですって?」
「すみません。あまり育ちが良くないので、無駄口をきいてしまいました。顔以上に覚える価値がないので、どうか忘れて下さい」
は両者に言い訳をして、ヴァルブルガの背後にあるテーブルを手で示した。
「紅茶でしたね? お淹れしましょう」
ずいと距離を詰めると、ブナの低木の反対側をすり抜けて、広場のテーブルを確認する。ティーセットと茶葉は揃っているが、ポットを持ち上げると、空だと分かった。お湯がないと口にしかけて、は思い止まった。魔法使いならば、おそらく杖で用意するものなのだ。
考え考え、は言う。
「申し訳ありませんが、杖を忘れてしまいました。これではお湯が用意できませんね」
ヴァルブルガはびっくりして、眉間にしわを刻んだ。
「杖を? 信じられないわね」
この高飛車な様子からするに、自分で杖を振ることはないだろうと思われたが、以外にもあっさりとヴァルブルガは杖を振った。の持つポットは急に重さを増し、注ぎ口から湯気が昇る。は多少たじろぎながらも、ポットを置いて、今度は茶葉の缶を確認した。装飾に凝ったもので、文字が過度に飾られているので、には読めない。サラザールに視線を送ると、嫌そうに答えた。
「フォートナム・メイソンのブレンドだ。お前、煎れ方をわかっているのか?」
は髪を後ろへ流す仕草をしながら、首を傾けた。サラザールは呆れながらも、丁寧に説明を始める。
「カップを温めろ。湯の量は? 茶葉はスプーン二杯だな。茶葉が大きい、三、四分蒸らせ。それから・・・・・・」
ヴァルブルガは椅子に優雅に座り、群生する小振りのバラをぼんやり眺めている。はサラザールの細かい指南に従って紅茶を用意すると、蒸らすだけとなったポットを置いた。
そのままテーブルを離れると、サラザールが咎める。
「おい・・・・・・」
しかし、話の続きをするつもりだと分かると、黙って付いてきた。
バラの茂みは、ヴァルブルガと数メートルの距離がある。歩み寄ってしゃがみ込み、はそれを一輪摘んだ。
そして、ヴァルブルガに聞こえないように囁く。
「オリオンに呪文を打たれたわ。潮時よ」
「なんだと?」
「サラザール。今夜この学校を出よう」
はテーブルに戻ると、摘んだバラをカップに添え、にっこりと微笑んでヴァルブルガへと差し出した。


 




















52

ティーカップが一つしかないことが幸いした。もっとも、二つあったとしてヴァルブルガが同じ席につくことを許すとは思えなかったが、ともかくは場を後にすることができた。
「用事がありますので、私はこれで」
とても敬っているとは言えない社交辞令程度の挨拶に、ヴァルブルガは驚いているようだった。しかし、は王女として持ち上げる気などさらさらない上に、そういった矜持に対する扱いはまるでわかっていない。
は背を向けると、温室の大扉へ足早に向かった。
一方ヴァルブルガは、すぐにから視線を離した。多少の驚きは覚えても、結局のところ取り巻き程度の意識なのである。だが、紅茶を一口飲んだところで「あら」と声を上げた。
「・・・・・・美味しいわ」


外は打って変わって静かだった。殆どの生徒たちは既に大広間へ移動し終えているのだろう。
大扉を細く開き、人が消えるタイミングを見計らいながら、小声でサラザールに話しかける。
「リットルさんの場所、わかる?」
サラザールは何も言わず進み出て、大扉の片方に触れた。
「あの男の場所を教えてくれ」
はじっとその様子を観察した。生きていると言ったその城に、サラザールが語りかけている。それも、いつもの口調ではない。極めて丁寧だ。
まるで、自分の子供に語りかけるみたいに――。
はどうしてか茶化せず、眺めているだけだった。
やがて廊下の向こうから人の気配が消えたので、は扉を押し開けた。同じ頃合いに、ようやく情報を得られたらしいサラザールが後を追うように扉を離れようとする。
「あの男は階上らしい――待て!」
突然、サラザールが表情に焦りを滲ませた。は驚いて、扉から手を離す。しかしそれより早く、の手を掴む者があった。
「・・・・・・捕まえた」
そこには、僅かに頬を紅潮させたミネルバが立っていた。小さく呟かれた言葉は耳に届かなかったが、口の動きで「やっと」と読めた。
は見開いていた瞳を元の大きさへと戻し、肩を竦めた。
腕への力の籠め方からして離す気はないらしい。
「負けたわ。お見事ね。実は子供の頃から鬼ごっこに慣れてるって感じかしら。男の子に混じって遊んでいたんじゃない?」
「貴方は何者なの」
ミネルバは問いを放った。の声を聞いてはいても、自分の中にある確固たる疑念を口に出すのに必死、といった様子だ。しかし、その目は怖いくらいに澄んでいる。


 




















53

そしてトム・リドルが現れた。暗がりから滲み出るようにして、うっそりと笑いながらを呼んだ。
「探したよ」
薄い唇が酷薄に歪んだ。
温室への重い扉が閉じ、急に空気から濃い草の匂いが消える。湿った石の微かな気配だけが風に混じり、流れた。
リドルはミネルバを見ていなかった。まるで目に入れる価値のない些事であるかのように、意識に入れていない・・・・・・人として数えていない。
「来い、
様子が一変して、狂気がそれと分かる程露骨に声の一音一音を研ぎ澄ませている。ただ人を呼ぶだけでも、周りを萎縮させ、命令一つで異質をあらわにする。
「もう少し友達と話をしたかったのだけど・・・・・・」
ミネルバが息を飲み、狼狽しているのを横目で見、はその間に割って入るように歩を進めた。
「――もうそんな場合ではないのかもね」
ふっと視界が陰った。温室に接するガラス窓が廊下の途中で途切れていて、リドルの場所に近づくほど陽光が届かなくなる。視線を上げると、今まであまり感じなかったこの城の荘厳さに息が詰まりそうになった。柱から天井までをびっしりと覆う細かな装飾の、その一つ一つが魔法を模している。『普通の世界』を拒絶する。はそこに行こうとしている。
「君に見せたいものがあるんだ」
リドルは手を指し伸べず、身を翻した。人を連れていくのに、彼は指一本動かす必要がない。
、さん・・・・・・?」
リドルに続くの背に、戸惑いで揺れるミネルバの声が掛かる。
ある意味、名を知り目的を果たしたと言える。
ミネルバの顔を見ると、酷く懐かしい思いに駆られた。リドルに近づきすぎて、ずっと遠くの世界にいたような気持ちになる。
目を細め、は言う。
「さようなら、ミネルバ。・・・・・・彼によろしくね」
もう会うことがないだろうとは言わなかった。タタッと靴を鳴らし、足を早めた。遅れた距離を取り戻し、リドルの風に翻るローブを追いかける。
これをリットルと呼んでしまえば、今までリットルと呼んでいたものを壊してしまうと思って、黙ったままその後を追った。


 




















54

夕食の鐘が鳴り終わると、いよいよ辺りは静かになった。人の気配のない校内をリドルと二人歩いていると、静謐な古い映画の中に入り込んでいるようにすら感じられる。魔法使いと、石の城を登っている・・・・・・。
徐々に夕焼けが進んで、ふと突然、景色が赤いことに気付く。
サラザール、と小声で呼びかけるが、彼はずっと思い詰めたように黙り込んでいる。
は前を向いた。
「・・・・・・どこへ行くの?」
リドルは初めて振り返り、微笑んだ。
「君の好奇心にきっと見合う」
なぜか横に並びたいとは思わなかった。斜め後ろから、階段を登る。
「けれど私、好奇心を満たしたいのであって、満たされたいのではないわ。つき動かされる、見境のない愚かさでの冒険が好きなの。案内役はいらないわよ」
「それは本当に愚かだね」とリドルは楽しそうに言う。「好奇心は飼い馴らすものだ。振り回されるのを楽しむようではギャンブラーと変わらない。確実なものを得られない弱者の、その中で見出だした楽しみのようだ」
「言ってくれるわね」は顔を歪め、内心で吐き捨てた。それであってるわよ。弱いから遊んでいる。大切なものを軽視して遊ぶことの中で自由でいようとする。偽りの自由であっても、それしかないのなら。
はぼそりと呟いた。
「来年もあなたはあのアパートにいるのかな」
リドルはそれを聞き咎め、ちらりと視線を送る。
「どうしてそんなことを?」
「・・・・・・なんでもない」
覇気なく返事をしたとき、リドルは、通りすぎると思われたトイレに入っていった。首を傾げる間もなく後を追ったが、リドルが躊躇なく女子トイレに入った時には、も一時固まった。
奥まった場所にあり不便そうではあったが、小綺麗な普通のトイレだ。魔法で掃除できるとはいえ、水垢も見当たらない。はここが原作の五十年前であるという事実を殆ど意識していなかったために、そのワードをリドルに繋げるのに時間がかかった。つまり、想像したことがなかった。マートルが荒らす前のトイレがどのようなものであったか。
「女子トイレ・・・・・・」
「勘違いしないでよ。ここは入り口に過ぎないんだから」
リドルが低く息を漏らすような声を発した時、の顔から血の気が引いた。
個室の正面にある六角形の洗面台が分離したかと思うと、その真ん中に暗い穴が徐々に姿を現していく。ズン・・・・・・と、床が低く振動する。むせ返るような下水の臭いが鼻孔にどっと流れ込んだ。
「見せたいものって」
その先は言葉にならず、喉が酷く渇く。
「君が探していたものさ」
「探して、いた? 私が・・・・・・」
「さあ、おいで」
リドルが穴の前で両手を大仰に広げて、その奥へと、愛おし気に目をやった。
「君の探していたもの。これが『創始者の遺産』さ」


 




















55

下水管の長い滑り台を降りると、狭い石の通路があり、その先に秘密の部屋がある。
もう一度リドルがパーセルタングで命じ、鉄扉は簡単に解放された。
突然空間が開けたかと思うと、天井が極端に高なった。まるで尖塔の一つを一階建てにしたかのようですらある。そこに幾本もの太い柱が伸びている。その白い石の柱には絡み合う蛇の装飾が施されており、細かい溝には緑の苔が染み込んでいた。湿気が多く、腐水独特の饐えた臭いがする。床のあちこちはぬめり、気を抜けば滑りそうになった。
その最奥に聳えるサラザール・スリザリンの像の足元へと、リドルは優雅にもたれ掛かった。
「長らく見つけられなかったのも無理はない。ここはサラザール・スリザリンの血脈でなければ入れないんだ。僕がいなければ君は目的を果たせなかったんだよ。・・・・・・、もう少し嬉しそうな顔をするべきだと思うけど?」
は渇ききった舌をかろうじて動かし、言った。
「贈り物が壮大すぎて、少し」
「満足したかい?」
は答えられなかった。長い間凍り付いたように立ち尽くし、口内に滲んだ唾を嚥下してようやく、それを言った。
「これで終わりなの?」
「なんだって?」
「私とあなたのくだらなくていびつな日常は、これで終わりなの。あなたは、私にこれを見せて・・・・・・どうなると思うの」
「・・・・・・さて、どうなるのかな?」
リドルがひょいと無造作に片手を動かした。その冷気にぞっとするよりも早く、サラザールが鋭く叫んだ。
「バジリスクを呼ぶ気だ・・・・・・逃げろ!」
スリザリン像が軋んだ。ずるり、と悍ましいほどに巨大な何かの動く音、そして――。
身を翻して走り出そうとしたの手を、リドルが素早く掴む。
「そこで目を閉じるのか。さすが、少しは情報を掴んでいたらしい」
「・・・・・・、殺すの?」
背後に大蛇の這いずる音がするせいか、リドルの指先の冷たさが爬虫類のもののように感じる。は、視線をタイルに落としたまま薄く目を開けて、後ろのリドルに問い掛けた。
「手に入れた武器の威力は確かめておかなければいけないだろう? 学外の、ここにいるはずのない人間で試すのが一番リスクが少ない」
憎らしいほどに冷酷で、冴えた声だった。しかし、それが急に柔らかくなって、耳朶を撫でる。
「もったいないとは思っているんだ。君はなにか特別なものを持っている。――そう、その記憶だよ」
は鼻で笑った。
「私を手懐けたいの?」
「その記憶をくれるなら仲間にしてもいい、そう言っているんだよ」
仲間なら殺さないわけでもないくせに。心の中で吐き捨て、は腕に力を込めつづける。リドルはそれを離さず、大蛇の気配は先刻よりも近付いている。
突然、リドルが力を抜いた。拮抗が崩れ身体のバランスを崩したところを巧に引き寄せると、リドルはその腕にを抱える。それは、悍ましい程に整った所作だった。
「僕と来ないか」
来るわけがない。と、心では言える。
咄嗟に閉じた瞼の下に、ちかちかと光る紫の斑点を、は放心するように眺めていた。
「仕事仲間になったら面倒くさいタイプでしょう、あなたは・・・・・・」
オブラートに包んだ言葉を舌に載せれば、薄い膜がなかなか溶けないのか、必要なことさえ伝わらなかったよう。この場面で誤魔化しは受け入れられない。抱擁は、感情を微量も込められないまま、空虚に続けられていた。
選択肢が一つしかない分かれ道は分かれ道とは言わない。どちらにせよ死に回帰する分岐点に、はいた。
覚悟はなかった。はそれを持ったことがない。軽視することで限りなく類似させ、それらしいものに仕立て上げるだけだ。
「あなたと行けるなら、それも楽しそうだと思った」
「・・・・・・思っ『た』?」
「同じ道は歩めない。たぶん・・・・・・あなたの進む方と、私のいる場所は噛み合わないと思う」
魔法使いじゃない。マグルだから。
あなたが消し去ろうとしている場所にいる。共には行けない。
「同じ場所には立てないよ。私とあなたはどこまでいっても、ただのお隣さんなんだわ」
『リットルさん』はいなくなってしまった。リドルは不要を許容しない。奇しくも、ヴォルデモート卿が『リドル』を不要だと殺したように、『リットル』という偽りは既に死んでいたのだ。同時に思い出していたのは、リドルが父親を殺すのだということだった。それは来年の夏休みだ。最初から彼は、あのアパートに戻ることなどなかった。
彼との道は正しく平行を辿り、交わることはない。時折柵越しに話すことは出来ても手を繋ぐことは出来ないだろう。道が離れれば必然的にたちも別れる。最初からその程度の関わり合いであり、リドルはそれを分かっていたはずだ。
一緒にいたのは好奇心で、それ以上には何もない。何もあってはならない。
「それに、約束した。他人でいるって」
小さくリドルの肩が震えた。背中に回された指が、跡が付きそうなくらいにローブに食い込み、はその痛みに呻く。
「はは。・・・・・・ははは!」
リドルは高らかに笑った。
「他人でいるなんて、まったく、くだらない約束だった。僕にとって僕だけが真実なのに、他人以外のなにが存在しうる? ああ、残念だよ。本当に!」
突き飛ばされ、は身をしたたかに打って床を滑る。リドルに借りたはずのローブは漏水で濡れ、纏わりついて重みを増した。
耳のすぐそこに巨大な生物の呼吸を感じた。
!」
サラザールの声が耳朶を打つ。
「っは・・・・・・」
漏れた息は、笑いになりそこねたのか、それともため息だったのか。
世界を壊すなら、それもよかった。
東京が爆発する映画を見るような気持ちで、楽しめるほど遠くにいる。
情を許しても、必要なら愛してやって、手伝えというなら多少の手を汚しても、すべてはくだらないこと。
ここは、海。ペットボトルの中の。
弱者の遊び場は小さな自由を装って。
ボトルシップは冒険をしているふりをして。
本当は同じ海にいなかったからだ。
私たちが敵にならないのは。


 




















56

サラザールが逃げろだの避けろだのを無責任に喚いている。肉体を持たないやつはその重さを忘れているのだ。
は咄嗟にローブを脱いで後ろに投げつけた。ビタンッ、と鈍い音がしたあたり、命中はしたらしい。
「目は塞げていない、急げ!」
サラザールがせかす。そのとき、頭上を光線が通りすぎた。一瞬リドルかと思ったが、方向が真逆だ。
次の瞬間、ゴガアッ、と派手な破壊音が反響した。は振り返りそうになるのをなんとか思い止まって、つんのめるように走った。
足元に転がってきた石の破片からするに、柱が砕けたらしい。
「レダクトの無言呪文・・・・・・?」
この状態では目をつぶって走るのは危険なので、なるべく低い視線で瓦礫の間を縫うように進む。正面に佇む制服の彼――ズボンを穿いているからおそらく男だろう――が、先ほどの呪文を打ったのだろう。とりあえず味方と見ていいらしい。が駆け寄ると、彼はもう一度呪文を放ってパイプ通路の入口を崩した。これでしばらくは道を封鎖したことになる。
緊張が切れたせいか足がもつれ、壁に肩を打ち付ける。無意識に止めていたらしい息を、改めて吸い込みながら、は男に礼を言った。
男はローブもネクタイも身に付けておらず、寮が分からないばかりか、顔に鉄兜をつけている。はそれが、廊下に飾ってある鎧甲冑の頭部であるとすぐに気付いた。
「無事か?」
「・・・・・・アルファード」
予想をしていなかったと言えば嘘になる。しかし声を改めて聞くと、どうして、と思わずにはいられない。彼はブラック家という、きわめてリドル側に近い位置に立たされている人間だ。寮を偽り、顔や声を隠してまでここに来たのだと思うと、ありがたい気持ちと困惑とで気持ちが混濁した。
しかし、今は余計な話をしている場合ではない。瓦礫の向こうから巨体がうごめく音と振動が伝わっている。
は太いパイプの通路の先、急勾配になっている滑り台に目をやった。
「・・・・・・そうか。フォークスがいない・・・・・・」
「誰だって?」
頭上を指して、セツは二人に訊ねた。
「上る方法がない。他の出口は?」
ハリーがジニーを追って秘密の部屋に入るとき、そこにはフォークスがいた。その類稀な怪力があってこそ、ハリーたちはこのパイプの上へと戻ることができる。もしくは、箒か何かがあれば別なのだろうが・・・・・・。
「初めて来た場所だぞ。知るわけがない。箒を持ってくる時間もなかったしな」
「出口は他に作っていない。入り口を増やしたくなかったからな」
それぞれがどちらも否定的な答えを返した。アルファードに至ってはヤケクソの気配がある。
「箒を探すしかないな。ここが隠し部屋であれ、脱出用に用意してあるはずだ」と、アルファード。しかしこれを否定したのはサラザールだった。
「箒は飛ばない」
「どうして?」
アルファードには勿論サラザールの声が聞こえていないため、に怪訝な顔を向けた。しかしは、緊急事態ゆえに取り繕うことなくサラザールに向かって発言する。
サラザールはを見据えた。
「そう作った。考えてみろ、俺がこの部屋に入ることを想定したのは、スリザリンの後継者のみ。それ以外の者には、秘密を守って死んでもらわねばならん」
「・・・・・・まさか」
背筋にぞっとするものを覚え、は思わず床に目をやった。様々な大きさの動物の骨が山となっている。
「おい、どうかしたのか?」
アルファードの呼びかけに、小さく首を振るのがやっとだった。
身じろぎしたの足の傍から、小骨がコロコロと転がった。
サラザールは淡々と続ける。
「脱出の方法は継承者にのみしか必要がない。わかるか」
「じゃあ、あなたが用意した唯一の脱出方法は・・・・・・」
「バジリスクだ。あれに運ばせる。そうできないものは継承者ではない」
は絶句し、よろよろと後退る。その時のサラザールの瞳は、どうしてか、憐みにも見えた。
「そして今この部屋に、バジリスクに命令できる者が二人いる。継承者トム・リドル。そして、創始者サラザール・スリザリン――この俺だ。おまえがその身体を貸し与えるなら、俺はバジリスクに絶対の命令を下せる」
「サラザール、あなたの・・・・・・狙いは」
「では、改めて問おうか。条件はもう分かるだろう。俺の望むものをお前が叶えること。この契約を受けるなら、俺はおまえを助けよう」
「おい、さっきから誰と話してる? もうここも保たないぞ!」
サラザールの透明な身体の向こうで、瓦礫のバリケードが大きく振動した。うず高く積まれた骨の山が渇いた音を立てては崩れていった。与えられた時間はそう多くはない。
は強い視線でサラザールを睨めつける。サラザールの色のない瞳も同じように強かった。ピアノを弾きたいというような他愛もない願いでは到底ありえないことは分かっている。


 

















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